『とげとげしい言葉の正体はさびしさ』
TwitterからXへと、著名なSNSの名前が変わる前後、まだそこに居残るか、それともアカウントごと捨ててしまうか、という議論がユーザー間で起こりました。
私はおそらくほとんどの人がそのまま動かないだろうと考えましたが、その理由のひとつは"活字"です。
この映像全盛のご時世でも、まだ活字が一番の好物という、良い意味での変わり者がそこには集まっていて、他にはその欲求を満たす場所がないからです。
何せもう次から次へと、際限なく様々な文字情報が現れては消えを繰り返すのですから、それを追うのは私を含む活字中毒者にはこたえられない愉楽です。
他SNSのユーザーが引いてしまうほどの赤裸々さ、毒気、玉石混交ぶりもよそでは決して見られぬもので、X代表者のイーロン・マスクすら、日本でのXの独自性と発展ぶりには目を見開くほどです。
そんなXのタイムラインに次々に流れる有名無名の人々のつぶやき、極北の国の文化紹介からカンガルーの生活日記、15世紀の画家の秘話、酸っぱいトマトの料理方法といった豆知識に紛れて、その一文はありました。
〈とげとげしい言葉の正体はさびしさ〉
ああ、わかる、と思わず独りごちたくなります。
それは、誰にもおぼえのある、ささくれ立った気分のままに発せられる言葉の荒さを、見事に解体してみせていたからです。
幸せな時、人は決して棘のある言葉づかいをしませんし、不幸せな時、やわらかな言葉で話すことが難しいのも然りです。
尖った険のある言葉を発する人は、すでに内側で傷ついているのだという無言のメッセージを周囲に発しているのかもしれません。
その言葉が特に心に響いたのは、数日前に、ある漫画家さんのエピソードを読んでいた影響もありました。
その人は学生時代に飲食店でアルバイトをしており、そこにはずいぶん怖い先輩がいたといいます。
仕事は抜群にできる反面、他のアルバイト仲間への当たりがきつく、皆に敬遠される一匹狼的な存在でした。
ところがある時、その先輩から電話が入り、体調不良で仕事に出られないため、シフトを替わってくれないかと打診されます。
漫画家さんはちょうど空き時間もあり、働いた分だけ収入につながるからと、喜んでその頼みを承諾しました。
不思議なことに、それをきっかけに先輩の態度が変わり、少しずつ口をきくようになったばかりか、半年後には二人で呑みに行くようにさえなりました。
常々気になっていた、そんな変化の理由を本人に尋ねてみると、返ってきたのは思いがけない答えでした。
「だって、お前はあのとき何も言わず仕事を替わってくれただろ?
人から優しくされたのはあれが初めてだったんだ」
その漫画家さん自身も壮絶な家庭で育ち、作中にはその悲喜こもごもが描かれています。
そんな人をもってしても、先輩の言葉は胸に迫るものがあったそうです。
世の中には、その程度の気遣いすら受けずに育ってきた人もいる、そういったことや先輩自身について、初めて理解できる気がしたとも書いていました。
人を寄せ付けない厳しさは、他人からもそのようにしか扱われてこなかった、哀しい背景によるものだった。
まさに〈とげとげしい言葉の正体はさびしさ〉です。
この言葉を書いたのは或る有名な精神科医で、その人は他にも短く含蓄に富んだ言葉をXで発信しています。
それらは言葉の洪水の中でも埋もれることなく、時間をかけて多くの人に認められ、抱きとめられてきました。
そんな言葉を集めた『とげとげしい言葉の正体はさびしさ』というタイトルの本も先ごろ発売され、その一冊は、私の部屋の本棚にも収まっています。
著者の名は〈精神科医N〉ですが、最後の〔あとがきに代えて〕にはその人の本名と、匿名で出版された理由が書かれています。
そこで語られる"もう一人の自分"から"ふっと降りてきた言葉"について、誰しもに関わりのある"異世界"についての説を読むだけで、何か不思議な境地に迷い込むような心地になります。
「ひとりだから孤独なんじゃない」
「愛と毒」
「世界の外側にいく」
こんな、目にするだけで想像力が刺激され、深い思考に誘われるような言葉がずらりと並び、実用的にも瞑想的にも読み進められるところが、とりわけ素晴らしいと感じます。
元はTwitterに掲載された文章だけあり、短いフレーズのひとつひとつにキャッチーさと吸引力が備わっているのもまた、大きな魅力のひとつです。
こんな言葉に出会えるからこそ、しばしば炎上騒ぎが持ち上がっても、SNSも捨てたものではないと思えるのです。
様々な功罪を併せ持つSNSも、使いよう如何で毒にも薬にもなり得ます。
そうであるなら、自分にとっての栄養や愉しみにつながるような、素敵なつき合いができればと願います。
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