笑いのめす能力
「私はとても頭の悪い熊です」
「ブリトン人、ゴー・ホーム」
「お前の戦車なんかぶっ壊れればいいんだ」
いったい何事かと思う文章ですが、もしこれをある言語で口にできれば、欧米で無条件の尊敬を得られるかもしれません。
そのある言語とはラテン語であり、これらはラテン語学習のテキストに掲載されている一文です。
誰がいつ使うのか、という突っ込みはさておいて、ラテン語が大いにはったりが効くのは事実であり、会話の途中でいかにもそれらしく口にすれば、相手を煙に巻き、教養深い人という印象を与えられます。
どうせ内容を理解できる人などいないのですから、やや遠い目線で、唐突に「頭の悪いクマ…」とつぶやいても、目をむかれたりはしないでしょう。
お相手もその意味を問うて自分の無知をさらすよりは、さもわかったような顔つきで、黙ってうなずき返してくれるはずです。
それでも「メメント・モリ」「リベラ・メ」「コギト・エルゴ・スム」などはあまりに有名で使いづらいので、やはり「クマ/Ursus perpauli cerebri sum (ウルスス・ペルパウリー・ケレプリー・スム)」や「ブリトン人/Britanni ite domum(ブリタンニー・イーテ・ドムム) 」あたりが、おそらく相手も聞き覚えがないうえフレーズも短く、使用するのにおすすめです。
知性マウントを取る必要がある時に、ぜひ試してみてはいかがでしょうか。
こんな冗談はさておいて、私が好きなラテン語の、現代でも十二分に通用する例文はこちらです。
「Fortasse, haec olim meminisse nobis juvabit (フォルタッセ、ハエック・オーリム・メミニッセ・ノービース・ユウァービット)」
「たぶん、いつかこのことを思い出して笑える日がくるでしょう」
なんだか胸がうずくような、想像力をかき立てるフレーズです。
誰が誰に向かって、どのようなシチュエーションで口にするのか。そこにあるのは、かなしみ、あきらめ、それとも投げやりか諦観か。
少なくとも、今はまだ笑えない、という事態に陥っていることは確かです。
思いもかけぬ何かが起こったために、そこから気を逸らそうと、未来形の言葉づかいになっているのでしょうか。
そうであるなら良い作戦で、この出来事も後には笑えるようになる、と宣言してしまえば、出来事自体に、さほどの影響力を与えない、ということにもつながります。
笑いについて、古今東西の賢者たちが、多くの言葉を残しているのは偶然ではありません。
おそらく笑いは、どんな事態にも打ちのめされず正気を保つための、人に与えられた最後の砦です。
作家のマーク・トゥエインによれば、それは「人類が持つ、実に効果的な武器」であり、追い詰められればられるほど、軽口を叩く外国映画のヒーローが見せる姿勢はその典型でしょう。
それはまだ参ってはいないという証であり、危機的状況を客観視して笑えるだけの胆力と余裕を持ち合わせていることの強調です。
震えながら口をつぐみ、運命を受け入れるつもりなどない。まだここから、形勢逆転だってありうると、相手に匂わせつつ自らを鼓舞しているのでしょうか。
外国語通訳の方から、たとえば数カ国の人々が集うような場において、日本人のもっとも見劣りするのは“笑わないこと、笑わせないこと”だと聞きました。
通訳がいるのですから言語の不一致は問題にはならず、ただそういったメンタリティが欠如しているだけという話です。
どのような集まりでも、そういった人は即座に蚊帳の外で、ユーモアを解さない人は知的でないうえ、人として信用し難いともみなされるのだとか。
「とにかく、もっと笑いを!気の利いたジョークでなくていいんです。相手を楽しませたい、近づきになりたいという姿勢を見せてください」
そんな風に進言しても、ますます無口になるばかりか、中には怒り出す人もいるといいます。
それは圧倒的に中高年の男性に多く「みっともない」「なぜ自分が人のご機嫌取りをしなければならないのだ」と返ってくるそうです。
それは自分を下げることでも、相手に取り入ることでもない、あなた自身が得をするんですよ、といくら説明してもまず理解はされないため、馬鹿らしくてもう忠告もしなくなった、とその方は話していました。
笑いは場を和ませ、うまくすれば人となりや知性まで嫌味なくアピールできるのに、かたくなに拒絶するのはどうしたものか。
どんなに込み入った議論を一時間続けるよりも、ほんの数分間の笑い話の方が、よほど相手のことがわかるような気がするのは私だけでしょうか。
厳粛な場に無理に笑いを持ち込むのでないかぎり、あらゆる場に軽やかな笑い声と明るさが満ちているのは、私の理想の世界です。
ちょっとしたことなら笑い飛ばしてしまえる人は、いかにも大人の余裕を備えている感じで憧れますし。
それは実は、とても偉大なことなのではとも感じます。
『スヌーピー』の作者である、平場の哲学者チャールズ・シュルツも言っています。
「もし私が次の世代に贈り物ができるなら、自分のことを笑いのめす能力を選ぶだろう」
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