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長旅の心得

年明けから酷い体調不良に見舞われ、どうにか毎日をやり過ごしていました、というのが前回の話の内容でした。
幸いにもめまいや倦怠感などは脱けたものの、咳や声枯れといった細かくもうとましい症状はしつこく残り、ささやかな戦いは未だ続いています。

なかでも声の出し辛さは閉口もので、一時はささやき声でしか話せずに、同情されたり聞き返されたり、あえての無視をしてもらったりと、周囲に大変な迷惑をかけてしまいました。

ともかく声が少しでもましになってほしい、というが私の最近の切なる願いで、人と話すこと、会うことを躊躇するこの状態は、聾唖の方の訴える、周囲とのコミュニケーションの難しさに近いものがあるのでは、などとも感じています。
しょせん一過性のものに過ぎない症状を、そういったご苦労に並べるのもおこがましいかもしれませんが、たとえ短期的なものであれ、対人関係に困難が生じていることに変わりはありません。


人と思ったように意思疎通ができないのは意外なほどに辛いもので、相手への引け目も強く感じます。人間は五感のうちでも、聴覚に障害を負った場合に最も激しい心理的ショックに襲われる、という研究結果もさもありなんです。

発声出来ないというのは見た目では測れない特性のため、いざ誰かと話す必要が生じた際に、ことさら困惑を生じやすい気もします。

スウェーデン、それともノルウェーだったか、手話が堪能な王女様がいらっしゃり、その理由を尋ねられて、こんな回答をなさっていました。
「聴覚障害を持つ方にお会いして、何も話せないことがありました。私が手話を知らなかったためにです。
それで私は、手話ができないという自分のハンディキャップを克服したいと思いました」

世の中がこれほど素晴らしい人ばかりなら良いものの、残念ながらそうとも言い切れません。
私にしても、筆談のための紙とペンを持ち歩こうかと思案しているうちにどうにか声も戻りつつあり、もうしばらく経てばそんな困難すら忘れてしまうに違いありません。

"想像力が大切"とはよく言いますが、それを言葉だけの綺麗事で終わらせず、少しでも何らかのチャレンジを余儀なくされている人たちに対する、共感や配慮を忘れずにいたいと思っています。


それにしても、今回もずいぶんと更新が遅くなり、まだ頭がぼんやりしているので、などと言い訳しつつ、こんなことではいけないとも痛感します。多少なりとも楽しみに読んでくださる方のためにも、自分自身に対してもです。

今さらですが、私がnoteを続けているのは、もっと文章を上手く書けるようになりたい、というのが第一の目的です。

前職でもnoteに営業を兼ねたブログを投稿していたものの、そのあまりの表現力のなさには落胆しきりでした。
とはいえ"上手く書くコツ"といったものをいくら学んでみても、まるで効果が上がりません。やはりすぐに身に付くものはすぐに消えてしまうのか、いくらかすると忘れてしまうし、しょせんは借り物のメソッドのため、どこかしっくり来なかったり、いざという時の応用が効きません。

極めて上手に教えてくれたり、それを身に付けて上手く使いこなせる人もいるのでしょうが、残念ながら私は器用さとさとさが欠けるのか、お金と時間の無駄になっただけでした。


アメリカの心理学者アンダース・エリクソンの説によると、どんな分野でもそれを極めるにはまず最初に1,000時間、次に10,000時間が必要です。

たとえば絵を1日に3時間、毎日欠かさず練習すると、1年ちょっとで1,000時間。これで〈特技〉のレベルに到達します。
さらにこの1日3時間の練習を、その後もがんばって続けると、10年で10,000時間。晴れて〈一流〉の仲間入りです。

絵の例えで思い出したのですが、私が通っていた中学校では、美術の授業に必ず速写クロッキーの時間がありました。5分間で、モデルの生徒の全身像を描くのです。

私を含め、皆それはもう酷い出来栄えだったのが、時を重ねるにつれその様子が変わってきました。相変わらず下手は下手でも、クロッキー帳の前の方のページと比べると、後になるほど上達の跡が見えるのです。その間、大した指導は受けていないにも関わらずです。

明らかにこれは機会と時間の蓄積による効果のため、私はエリクソンの説を信じられます。

何かをものにするのに近道はなく、転ばない方法は教えてもらえても、目的地までの道のりは結局自分の足で歩かねばなりません。『オズの魔法使い』でドロシーの履いていたルビーの靴でもない限り、かかとをかちりと合わせて別世界へひとっ飛び、という訳にはいきませんから。


少しでも上手く書きたい、もっと色々なことを伝えたい、と思えば時にため息をつき、がっかりしながら書き続ける他はなく、ずっと練習と経験を重ねるのみです。

1,000時間はともかくとして、10,000時間ともなれば目もくらみ、気持ち的には帝都ローマを目指して大陸をひたすら旅する辺境の民の如しです。途中で迷ったり行き倒れたりせず、無事ローマ神殿にてユピテル像に謁見と相成ることを願います。

こんな終わりの見えない鈍足の旅に少しでも関心を寄せてくださることにあらためて感謝をしつつ、今回はこのあたりで足を休めようかと思います。そして次からはそろそろペースを戻し、歩く速度を上げるつもりでいます。
よろしければ、どうぞこの先も時々は旅の具合をのぞいてくださいませ。



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