キープ・オン・ザ・サニー・サイド
全く同じ仕事であっても、人によってその評価は真逆になることもあり……という前回の話(『犬は吠えるがキャラバンは進む』)ではありませんが、とあるコーヒー屋さんのレビュー欄に、興味深い投稿を見つけました。
そのお店は大阪府の郊外に位置し、宮大工さんの協力を得て作り上げた建物と、ガーデナーの奥様による庭も素晴らしいガーデンカフェです。
「コーヒーは果物であり薬である」と言い切る店主の淹れるコーヒーは劇的に美味であり、コーヒー好きの友人と共に、2ヶ月に一度は訪問しているでしょうか。
実はこのお店や店主については前にも書いたことがあるため、何となく覚えている、という奇特な方もいらっしゃるかもしれません。
そこで紹介した店主のコーヒー狂ぶりは健在で、僕のおしゃべりも料金のうち、とのご本人の言葉通り、その多弁さと博識ぶりにはますます磨きがかかっています。
私や友人にとってはこの店主と会うのも楽しみのひとつですが、全く同じ理由から、もうこの店を訪れたくない、という人もいるようです。
そのため同店のレビューには"反店主派"の刺激的な意見も並び、中でも驚きだったのは、店主との激しい口論の末、ついには胸ぐらを掴まれた、というものでした。
そのレビューの書き手は50歳前後と思しき男性で、騒動のきっかけは、ある有名な女性歌手がお店を訪れたことです。
男性がその女性に声をかけたのを店主が咎め、やがて口論から暴力沙汰に発展した、とそこにはありました。
男性は大いに憤慨している様子でしたが、店主からの暴力うんぬんという主張は、どうにも怪しい気がします。
私の知る限り、店主はそこまで直情的な人ではありませんし、他のお客さんの眼前で、そのような騒動を起こすとは到底信じられません。
歌手の女性への声かけを窘めた、というところまでは事実でしょうが、そこから先はどうにも創作的なにおいがします。
お客である有名人を守ろうとする店主の行動をくさす、明らかに悪意の込もった表現も、かえって逆恨みなど、書き手側に問題があることを想像させるのです。
他の書き込みにしても同じことで、理不尽な理由により低評価をつけている人々の言葉は、決まっていびつで、ものごとをとらえる姿勢自体に疑問を抱かせます。
個人経営のお店であれば、当然のごとくチェーン店にはない独自性が存在しますが、書き込みを読んでいる限り、低評価をつける人々が気に入らないとするのがその個性の部分です。
それも、ただ自分の感性とは合わないから、ということが評価の軸になっているのです。
これがいかに理不尽なことであるかは、同じ構図を対人関係にあてはめてみても明らかです。
自分とはどうしても性格が合わない人がいたとして、その人のことを、駄目な人だ、無価値な奴だ、誰も近づかない方がいい、などと周囲に吹聴はしないでしょう。
もしもそんな行為に及べば、人格を疑われ嫌われるのは、発言者の方と決まっています。
自分と相性が悪いからと、その人を貶めるのは違うのでは、とも指摘されるはずです。
ところがそれが、お店に対してはまかり通ってしまうのですから、経営者の側からすると頭の痛いことだろうと想像します。
自分の好みとずれがあるなら、静かに相手から距離を取り、黙って退店するなり二度と近づかなければ良いのに、と私などは思います。
誰かと会う約束をし、その人と時間を過ごそうという時は、きっと誰しも、それなりに心身のコンディションを整えるようとするでしょう。それは相手への気遣いであり、共に楽しむための重要な準備だからです。
同じように、どこかの店を訪れる時もまた、自身の状態は極めて大切です。自分にそこでの滞在を楽しもうという姿勢がなければ、きっと何もかも退屈にしか思えないに違いありません。
よりたくさんの楽しみを得ようとするなら、その方法は人、お店、機会、何に対しても同じはずです。
自分の姿勢次第で相手との関わり方や関係性は常に変化し、どのような経験を得られるかにも結びつきます。
ある種の旅では、持ち込んだ知識や見識に応じたものだけが自分に還ってくるように、積極的にその場に関わり、心を向けることにより、物事は美しい面を自分に見せ、深い喜びを味わわせてくれるものかもしれません。
そうであるなら、私は出来るだけ多くの場面で、そんな積極性を保っていたいと考えます。
コーヒー店で店主と話し、コーヒーを飲むことについてもです。
私は貪欲なタイプのため、楽しみごとは精一杯得たいと思っていますから。
たとえ自己催眠ではと言われても、今日、これから自分は最高の時間を過ごすのだ、会う人、行く場所、何気ない機会をとことんまで楽しもう。
初めからそんな風に決めて、過ごしてみるのはどうでしょう。
それが積み重なった時、ふと、驚くらい良い人生を生きていることに気がつくかもしれません。