遊びの才能
生後3ヶ月で家にやって来た子犬も月齢6ヶ月を迎え、そろそろ落ち着いてきたところです……と言いたいところながら、未だその兆しはありません。
相変わらずよく食べ、眠り、何より遊びます。
この世界が好奇に満ちた場所であるのは依然として変わらぬようで、子犬は目に映るもの、出会うもの全てに関心を誘われるようなのです。
特に目を見張らされるのがその遊び方で、既存のおもちゃはもちろんのこと、周囲の何でも遊び道具にしてしまいます。
ひもは全般に好きですし、紙があればどこからともなく持ってきて嬉しげに破ります。
タオルやカーディガンなどの布製品は、見つけるなり腕に抱え込みます。
宅配便が届くと跳ねまわるのは、中身より外側のダンボールが欲しいからです。
角を噛みつぶし、引き裂き、最後には破片にして床にばらまくまで、陶然とした様子で熱中します。
おもちゃを入れた布製ボックスをしがんではひっくり返し、リビングのローテーブルを踏み台昇降器さながらに昇り降りします。
暑気払いにもらった小さな氷はまず放り投げて自分で追いかけ、ようやく口の中に入れたかと思えば、飴玉のようにねぶり、最後にのどごしを味わいます。
外に出れば出たで、小石や草、泥に水たまりと、あらゆるものが遊び道具になるのですから、子犬は退屈を知りません。
いついかなる時も存分にその体験を楽しんでいます。
そしてそんな遊びに最も長時間つき合っているのは、間違いなく私です。
子犬の遊んでいる様を見ていると飽きませんし、子犬も遊び道具を口にくわえると私の元に駆けつけます。おもちゃを放り投げたり引っ張り合ったり、自分の遊びに協力する人間だと理解しているからでしょう。
目線を合わせるために私が床に座るとすぐさま膝や足の上に乗ってきますし、時にはそのまま後ろに倒れ、くつろいでものをかじります。
またそんなことをして。人を座布団だと思っているのでは。最初の頃こそ家族も冷やかしていましたが、今やありふれた光景のため、脱力して私にもたれかかり、口の端でぬいぐるみをしがむ子犬にも、またかという顔を向けるだけです。
家族中で子犬がそんな行動を取るのは私にだけで、これはつまり、私を遊び仲間と認めているからでしょう。
私は子犬が退屈するか眠くなるかでその場を離れるまで、ずっと一緒に遊びますから。
さて、以前『トーテムそれともアセンダント』という話にも書いた通り、私は人から思わぬ打ち明け話をされやすい性質であり、つい先頃もさほど親しくもない相手から、突然こんな話を聞かされました。
「大きな声では言えないんだけど、自分の子どもを、ずっとかわいいと思えなかったんです」
もちろんその人は、間違っても虐待や育児放棄をするようなタイプではありません。
けれども自分の子がかわいくない、というのは場合によっては深刻な話ですから、私も慎重に、黙ってその人にうなずきます。
「一緒にいるのが楽しくなったのは、子どもが5歳くらいになってからです。その位だと、ようやく話が通じたり、絵を描いて遊んだりもできるんですよね。
でもそれまでは正直、子どもと遊ぶのが苦痛で苦痛で。最初は我慢して相手をしていても、すぐ飽きたり苛々してしまうんですよね」
これは、通り一遍に責められるべき話ではありません。
子どもが嫌いなわけではないけれど、付き合い方がよくわからない、いつまでたっても慣れない、という親は一定数いるはずだからです。
知人もそのタイプゆえ、大人とはあまりに異なる世界観で生きる子どもに、心を寄せ辛かったのかもしれません。
その人は私を見据え、真剣な顔つきでこう口にしました。
「そこでわからないのは、あなたがものすごく子犬を可愛がってて、遊ぶのを楽しんでるっていうこと」
「はあ。変ですかね?」
「犬は人間にすると5歳くらいの知能があるって言いますよね?だったら小さな子も犬も、ほとんど変わらないってことでしょう?」
「そうなりますね」
「でも、あなたは子犬と遊ぶのが楽しいって、そこがどうしても理解できない。あなたみたいな知的な人が、犬との他愛ない遊びを、どうして心から楽しめるの?」
これには返答に困りましたし、私が口ごもっている間に、その人はなおも続けます。
「他に不思議なのは、イーロン・マスク。あの人には12人も子どもがいて、しかも本気で子どもが好きで。あんな仕事人間が、どこへ行くにもX(2020年生まれの男児)を抱いて連れて行ったり、双子の赤ちゃんといつまでも遊んでたり。
あなたといいイーロンといい、どうして?」
まさか自分が、世界一の富豪起業家と並べられる日がくるとは。それだけでも困惑しますし、その人がなぜ子ども好きかなど、私が知る由もありません。
けれど知人は本気で不思議がっているようですし、何らかの力になりたいとは思います。
とはいえ、私は自分をそれほど知的な人間だと思ったこともなく、子犬と遊ぶのが好きなのはただ可愛いからで、などと答えたところで、それでは納得のいく答えにはならなさそうです。
"遊びとは何か""芯から何かを楽しむとは"などの命題は、まともに考えれば文化人類学や哲学、社会学や歴史などを横断し、本が書けるくらいの考察が必要です。
最近もわずかに触れたロジェ・カイヨワやジャン・コクトーの思想の引用もできますが、私が実際に聞いたうちで、この人こそ遊びの天才だ、と感じた人のエピソードがあります。
それについて話し始めるとあまりに長くなってしまうため、久しぶりに続きものとして、残りは次回に譲りましょう。
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