方見月。二夜の月。
もう一昨日のことのため、これを読んで「しまった!」となる方がおられたら申し訳ないのですが、今年の10月15日は旧暦9月13日の〈十三夜〉でした。
十五夜は中国伝来ですが、十三夜は日本独自の風習であり、その起源は平安時代に遡ります。
"醍醐天皇が月見の宴を催し、詩歌を楽しんだのが始まり"という説が有力で、平安時代後期の書物にも"十三夜に〈明月の宴〉が催された"という記述があるそうです。
十五夜にお月見をする人は多いでしょうが、この十三夜も決して忘れてはなりません。
なぜなら、どちらか一方の月しか見ないのは、〈方見月〉と言われる、非常に縁起の悪い行為だからです。
もしはからずも方見月となってしまった場合には、それから一年の幸福はあきらめる他はなく、作物は実らず、災害が起こり……と脅し文句が並びますが、実はこれらは全て根拠のないでたらめです。
方見月なる言葉からして江戸時代の遊里が発祥で、お月見などのイベント〈紋日〉に客の散財を促すため、遊女が「二つの月を一緒に見なければ縁起が悪いから」と客に来店を促したのが起源だそうです。
﨟󠄀長けたお姉様方の手練手管の名残りと知れば恐怖心も薄れるものの、この事実を知らない頃、知人に方見月がいかに縁起が悪いかを熱弁したことがありました。その人はそれ以来頑なに〈二夜の月〉を見ているそうで、悪いことをしてしまったと反省しています。
秋の名月を愛でる貴重な機会だ、と割り切ってもらえれば良いのかもしれませんが。
とはいえ、風習にまつわる禁忌などは得てしてそんなものであり、大本を探ってみると、たいてい誰かの都合を通すためであったり、何かを禁止するための手段であったりするのが相場です。
たとえば"夜に笛を吹くと蛇が出る" "日が落ちた山に残ると天狗にさらわれる"は子どもたちの躾と安全のために考えられた大人の方便でしょう。
"夜に爪を切ると親の死に目に遭えない"という恐ろしい文句も、灯火の乏しい時代に怪我を防ぐためであったといいますし。
欧米では"ハシゴの下をくぐる"ことが非常に不吉とされており、ブリジット・バルドー主演のフランス映画でも、そんなワンシーンがありました。
全身を素晴らしいア・ラ・モードで決め、高いヒールの靴で調子を取って街を歩くバルドーが、前方に工事現場のハシゴを見つけ、ふと足を止めるのです。
そして急に用心深い顔つきになり、わざわざ反対側の歩道に移動しながら、あの唇をすぼめる仕草をする、というシーンでした。
アプレの代表のような、"自由奔放な若い娘"バルドーにも染み付いた禁忌という描かれ方も相まって、とても印象に残っています。
もしも不幸にもハシゴをくぐってしまった場合には、犬を見るまで手の指をクロスし続ける、という可愛らしくも謎の救済措置まであるそうですが、犬たちがあまりいないオフィス街などでは、ちょっと大変かもしれません。
"塩をこぼしたら自分の肩にすぐさまそれを振り掛ける"というのも面白く、ディナーの席で上品なローブ・デコルテをまとったレディが、慌ててそれを実行するのを見てみたい気がします。
"家の中で決して傘を広げてはならない"という禁忌については、パブロ・ピカソの伝記を読みながら初めて知りました。
スペイン南部の旧い街マラガ出身のピカソは、とことん迷信深く、生涯に渡って様々な風習や禁忌を守ったそうです。
理髪店を訪れても、呪いに使われないよう自分の髪の毛を一本残らず集めて帰った、というエピソードまであります。
もちろん"家の中で傘を広げてはならない"という教えも忠実に守り、パートナーであったフランソワーズ・ジローがうっかりそれを破った際は、半狂乱になったそうです。
その"違反"を無効化するため、すぐさま家中の人間が呼び集められ、大真面目に傘を掲げるピカソを先頭に、一列になって家の中をくまなく練り歩いた、というから最高です。
日本では子どもが悪いことをすると鬼やナマハゲがやって来て懲らしめますし、それがイタリアではハンニバル、イギリスではブラックラビットと、形こそ違えど共通した精神があるのが面白いと感じます。
世界各地の風習と禁忌は知るほどに興味深く、古代ケルトにおけるブリギット、ネイティブ・アメリカンにおけるコヨーテなど、想像力を刺激され楽しくなるものは枚挙に暇がありません。
人間がそれぞれの地で生き続けながら成立した、一見すると摩訶不思議なルールや教えは、それだけで民族学を超えた興味をそそり、市井の人々の備え持つ知恵や豊かさに思いを向けさせます。
ちょうど家族が観ていた再放送のアニメでも、"抜けた乳歯を屋根の上に投げる"という昭和中期の風習の一場面が描かれていました。
愛すべき無知と蛮習、などと軽んじず、たまにはこういった風習や禁忌を意識し、無理のない範囲で従ってみるのも良いかもしれません。
そして、私が今年も二夜の月を見逃し、方見月となってしまったことは内緒です。