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ふんわり仕立てのアナキズム

"初対面の時とよく知り合ってからだと別人のように思える"とは私がこれまで幾度となく言われてきたことで、その理由はといえば、私の外見と中身がいかにも不釣り合いだからかもしれません。

私は顔つきや声、洋服の好みなど、見た目の印象がやけにふわふわとしているらしく、"穏やかで優しい人"だと早合点され、実際はせっかちで激しい性格だと判るといつも大変驚かれます。


もう半年ほども前『美しく怒る』という話を書いたのですが、私は人よりかなり怒りの沸点が低いようで、日々あれこれの問題に腹を立てたり、その解決策を模索したりを繰り返しています。

政治家、あるいは革命家になれ、と冗談半分に言われるほどで、本人も革命家なら悪くない、などと思っているのだからお笑い草です。


けれども私は昔から"苛烈な現実に挑んだ末に敗れる革命家"たちが好きでたまらず、伊藤野枝ゾフィー・ショルヴィトルト・ピレツキエルネスト・チェ・ゲバラといった英雄たちに、強い憧れと尊敬を感じます。
この人たちは真の勇気と高邁な精神を持ち、世界のため無私の献身をしたからです。

他にも名もなき抵抗者たちはごまんとおり、歴史の影として消えていったその人たちにより、人類はどれほどの正義を獲得してきたかしれません。


私はレジスタンス活動に身を投じたり、地下室で体制批判のガリ版を刷った経験は無いものの、心の内では常に、容易に権力にくみしない人間でいたいと考えています。
村上春樹さんの有名なスピーチ、"巨大な壁にぶつかる卵の側に立つ"さながらにです。

その意味で私は、自分のことをアナキストだと感じています。


この単語の響きはやや恐ろしく、数々の"無政府主義者"たちによる、暴虐の限りを尽くした事件が頭に思い浮かびます。

けれどもアナキズムとは本来そういったおどろおどろしいものとは無縁で、アナキズムの語源〈アナルコス〉は、ギリシア語で〈支配がない〉ことを意味します。

アナキズムは無政府主義というよりも〈無支配主義〉すなわち〈支配がないことを理想とする考え方〉という訳が、元々の意味からふさわしいというわけです。


そのため国家転覆を狙った暴力騒ぎや、人々を無政府状態に陥らせんとのたくらみは、元々のアナキズムのあり方からはかけ離れています。

本来のアナキズムがどんなものであり、何を目的とするかというと、これは哲学者の鶴見俊輔の言葉を借りるのが最良でしょう。
すなわち
アナキズムは権力による強制なしに人間が互いに助け合って生きていくことを理想とする思想
です。


素晴らしい考えではあるけれど、それってかなり難しいのでは、と思われるかもしれませんが、これは実はとても簡単です。

たとえば、どこかのお店に買い物に行ったとします。
静かに店内を歩いて必要なものをピックアップし、レジに並び、お金を払って品物を得る。
これは法律や社会のルールにのっとった行動です。


けれども、通路に落ちている雑貨を棚に戻す。
レジ前で誰かが落としたポイントカードを拾って店員さんに渡す。
お年寄りがをカートを返却するのを手伝う。
自転車を引き出してくれた守衛さんにお礼を言いつつ天気の話をする。

これらは"しなくてもいい""余計な行動"であり、誰か、あるいは何かに強いられたり、ルールで定められたものでもありません。
外側の圧力からでなく、自発的に、自らの判断でもって生まれた行動です。


これこそが、立派なアナーキズムの一例です。
それも、妙にしゃちほこばった思想や意気込みなどは皆無でありつつ、より良い人間関係や社会へと、確実につながっていくのです。

これならば、ずいぶん気軽で簡単に感じられるのではないでしょうか。
アナキズムは、古代ギリシアにおける民主主義の成立以前から人々の間にあったに違いない、自然で理知的、成熟した社会のあり方だと思います。


なぜ急にこんな話を始めたかというと、久しぶりに唐鳳オードリー・タンのインタビュー記事を読んだからです。

彼女は言わずと知れた台湾の元デジタル発展部長で、その評価を最大限に高めたのは、やはり台湾社会がコロナ禍を無事に乗り切るために奮った辣腕と、その成功によってでしょう。


けれど本人は数多の賛辞をやんわりと受け流し、それを台湾国民の勝利であると語っています。

自分はデジタル関連における指揮を取りはしても、がちがちの命令系統を敷きはせず、常に人間同士のつながりを意識していた。
市民の良識を信じていたのだと。

政府中枢にいながら、彼女は自分をアナキストだと明言しています。


災害国家の別名もある日本でも、天災などの非常時に、一時でも暴動に発展したり、激しい混乱に陥ったという話を聞いたことがありません。

むろん、避難所の運営やSNS上のデマの拡散
など、是正されなければならない問題点は多いのですが、それでも大枠では世界的にも稀な秩序が維持され、皆が他人を慮った行動を心がけているように見受けられます。

平常時のルールが当てはまらず、カオス状態に陥っても仕方のないような局面でも、自己主義に走ることなく、助け合い、分かち合い、かばい合う姿を目にするのです。

これこそ、鶴見さんの唱える"権力の強制なき共存"です。


よく気をつけて周囲を見れば、こんなアナキズムの例はいくらでも、それこそ当たり前に存在します。
ですから、なおそれを拡げていくことは、決して不可能ではないと思うのです。

損得勘定に長け、個人的な既得権益を守ろうとする人たちの事件ばかりを耳にするうち、市井の"革命家"が見た夢のような願いかもしれませんが。



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