地上の楽園に生きた人「The Poems of Emily Dickinson 」
誰かとの会話が予想もしなかった方へ流れ、思わぬところへたどり着く、ということはよくあります。
しかもそれが、ときに感動的ですらある、深い場所へ行くことも。
先日も、ある人と話していたとき「人は一生の間に、他人のために何ができるか」という話題になりました。
私より一回り年上のその人は、最近とみにそんなことを考える、昔は自分のことしか考えなかったけれど、と衒いなく笑いました。
もっと若い頃は、何をしてもらえるかばかりが気になっていた、でも今気になるのは何をしてあげられるかだ、と。
「それは、何かきっかけがあってですか?」
尋ねると、ほとんど間を置かず答えが返ってきました。
「“大人になった”からでしょうね」
その意味を考えつつ黙る私に、その人は微笑みます。
「順番が来たっていうこと。
自分がしてもらったように、次は私が、受け取ったものを返していかなきゃ、っていう」
「持ち回り、ってことですか?」
「そう。私も歳を取ったってことかも。
いい意味でね?」
誰かからの贈りものを、次は自分が別の誰かに手渡していく。
その考えは、とても美しいものに思えます。
感謝だけでなく、覚悟と責任が伴っているから。
まさしく“大人”そのものです。
残念ながら私はまだまだその域ではなく、その人と同じ歳になっても、そんな風に言えるかどうか。
いささか心許ないところですが、こんな時に、いつも何とは無しに思い出してしまう詩があります。
もし誰かの心が壊れるのを防げるならば
私の人生は無駄ではない
もし誰かの苦しみを癒し
痛みを和らげられるのならば
もし気を失ったコマドリを
巣に戻してあげられるのならば
私の人生は無駄ではない
(『The Poems of Emily Dickinson 』
エミリー・ディキンソン 1955年)
作者のエミリー・ディキンソンは19世紀に生きたアメリカの詩人で、生前に発表された詩はわずか7編。
残りの1700編あまりは、死後に彼女の自室から見つかりました。
全く名誉欲のない人で、ほとんど隠遁者めいた暮らしをおくり、長じるほど生まれ育った家からいよいよ出なくなったといいます。
それでいて素晴らしく豊かな詩を書き続け、彼女の世間は狭いものの、誰よりも広い世界の中に住んでいました。
優れた詩人ならではの感性で、時空を超えたものに触れ、それを存分に表現する術も備えながら。
だからこそ、現代でも彼女の詩は廃れることなく読み継がれ、詩集や書簡集が増刷され「アメリカ最高の詩人」とも評されているのです。
生前の彼女はマサチューセッツ州アマーストに暮らし、生涯独身のまま、家の仕事や詩作で毎日を過ごしました。
閉じこもりがちだったとはいえ、家族やごく親しい人たちの前では明るく快活に振る舞い、庭仕事も得意。
近所の子どもたちにとっても最高の隣人で、おやつの時間になると2階の窓からするすると降ろされる焼き菓子入りバスケットに、皆が歓声をあげたといいます。
今よりも厳格なしきたりを重んじる当時、冬に白い服を着る人はいませんでしたが、彼女は一年を通して白ずくめの洋服で過ごしました。
それが彼女の好みだったからです。
外へ出なかったのも同じ理由で、身近には十分に美しいものがある、だから引っ越しはおろか、旅行すら必要ないと考えるほどでした。
身の回りから美を見いだす才を持つ彼女にとって、新しい土地の風景や目新しさには、さしたる魅力がなかったのでしょう。
何事においても自分の感覚を信じ、最優先させる勇気も持った人で、ドレスや家から出ない生活だけでなく、念願だった詩集の出版も、編集者との意見が食い違うと、きっぱりと断念しました。
神は信仰するけれど教会へは通わず(それは当時の、特に彼女の属する社会では考えられない行為です)客人を避け、世の騒々しさより静けさの中で自分にしか聞こえないささやきに耳を澄ませることを選ぶ。
そのあり方は大いに周囲を戸惑わせ、不思議がらせ、もどかしがらせもしましたが、彼女は決して自分を変えようとはしませんでした。
小さな暮らしの中で宇宙よりも大きなものを見つめ、自分は楽園にいると信じていたのだから、それも当然かもしれません。
誰にでもできることではなくとも、その揺るぎなく凜とした姿勢は私の憧れです。
そして、彼女がここにあげた詩の中で述べたように、私にも何かできることがあるかもしれない、とも思います。
一時でも誰かの助けになり、雛鳥のごときか弱い存在の支えになること。
とても大事業などはできなくとも、ほんの些細なことならば、私もして“もらう”だけでなく“あげる”ことができるかもしれません。
ディキンソンの詩は、他人のために手を差し伸べることが、自分の生をも意味のあるものとし、救われるのは双方であることを教えます。
そう考えるだけで、気分がとても良くなり、たとえ楽園ではなくとも、この世界もそう悪くないと思えるのです。
そしていつか、彼女のようにこう言えるかもしれません。
「いずれ天国を訪れるのではなく、いま天国を歩いています」
それでは、また次のお話でお会いいたしましょう。