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お茶狂いは悪事に手を染めない
「もしもお茶が無かったら、世界は一体どうなってしまうのだろう」
こう書いたのは、19世紀英国の作家シドニー・スミスですが、全くの同感です。
比喩表現でなく、お茶が無ければ、私は一日も生きられそうにありません。
何せ目が覚めてから眠るまで一日中お茶ばかりを飲んでいて、いったい家にどれくらいの茶葉があるか、数えてみたこともないくらいです。
せっかくの機会のため、戸棚の前に立って茶葉の缶や箱を見渡すと、その種類は2桁をたちまち突破します。
緑茶、抹茶、麦茶、ほうじ茶、玄米茶。これは日本茶のグループです。
中国茶ならプーアル茶に烏龍茶、甜茶、茉莉花茶。
紅茶はダージリン、ウバ、アッサム、アールグレイ、ディンブラ。
インフュージョンティーは最も多く、熊笹茶、ルイボス、モリンガ、ローズヒップ、ミント、カモミール、バタフライピー、レモングラス、その他ブレンドハーブティー。
あらためて列挙してみると壮観で、しかも独特のマニアくささも漂うあたり、ちょっと引かれるところでしょうか。
そして、当然投げかけられるであろう疑問として"そんなに集めてどうするの?" "それって全部飲んでるの?"というものが予測されますが、私は『趣味はジャンピング鑑賞』という話を書いたこともあるくらいです。ガラスのティーポットの中を泳ぐ茶葉を眺めるのが好きでたまらない、と告白しているのです。
いわば一種の狂人なので、茶葉はいくらだって集めたいし、全部飲んでいるに決まっています。
それぞれに味はもちろん、効能や飲みたいシチュエーションも違うため、どれか一種類に過剰に偏る、ということはあり得ません。
朝晩はカフェインレスで日中はカフェイン入り、といった区分けのみならず、脂っこい料理の後だからプーアル茶を、ちょっと野菜が摂れていないからモリンガを、低温殺菌のいいミルクがあるからウバを、たくさん日に当たりそうだからローズヒップを、ケガの回復のために濃いめの抹茶を、などと目的によって選び方も変わります。
それをガラスポットに入れ、茶葉が開いていく景色や水色を楽しみ、抹茶ならば器と茶筅の間で起こる変化を味わい、という具合のため、どのお茶ももれなく大切なうえ飽きません。
これらのお茶のおかげで、私は何て幸せな生活を送っていることだろうと常々感謝しているのですが、ただ一つ、問題点があるのです。
そのことに、森茉莉さんの本で思い当たりました。
茉莉さんも大のお茶好きで、紅茶について書いた一章に、こんな文章があったのです。
「昔読んだ英国の探偵小説に、無罪の罪で牢に入れられている貴族の娘に、父親が平常喫んでいる紅茶を差入れるところがあった」
なんだか、銅版画による挿絵まで浮かんできそうな場面です。
寒々しい牢に足を踏み入れる、顔に翳の差した立派な風采の紳士。簡素なドレスに長い髪のやつれた娘が両腕を伸ばして紳士に駆け寄り、牢の入り口では紳士に同行してきたメイドが目を潤ませて立ち尽くしている。その腕に下げた蓋付きの籠には、お茶道具一式が、というような。
ここで私は、もしも自分の場合だったら、と考え始めます。
現代日本の拘置所、あるいは留置場でも差し入れは可能だそうですが、飲食物は許されず、ましてやその場でお茶を入れることはどう考えても不可能でしょう。
お金さえ出せば拘置所指定の業者から嗜好品を買うことも叶うとはいえ、そこに"英国紅茶専門店" "老舗日本茶茶寮"などが出品している可能性は、ゼロに等しいと考えた方が良さそうです。
しかもお茶に関してだけは貴族の私は、ティーバッグをマグカップのお湯につけただけの飲み物を、決してお茶とは呼びません。
いくら時代遅れ、排他主義、いけすかないスノビズムと言われても、お茶はティーポットで淹れるべし、という一線だけは譲れません。
ということは、拘置所に入ったが最後、いつでも給湯室を自由に使ってもらって構いませんよ、と所長に微笑んでもらわないかぎり、私はたった一杯のお茶も飲めないわけです。
どこかの国のマフィアの幹部でもあるまいし、汚い手を使う手立てなどない一般庶民の私には、ペットボトルのぬるいお茶でも贅沢すぎるくらいなのです。
これは私には何よりの打撃であり、どんなものが食べられないとか着られないより、よほど身にこたえます。
何ヶ月もそんな境遇に置かれたら、と考えるだけで恐怖です。
そうなると、何があっても私はそこでお世話になるわけにはいきません。
これからは、どんなささいな違法行為も犯さないよう品行方正な暮らしに努め、うっかりして悪の世界に取り込まれたりしないよう、気を引き締めて過ごさなければ。
とはいえ、日々の生活から一切のお茶が消え失せたら、という可能性に思いを馳せただけで、簡単に実行できることではあるのですが。
ここまでくると、これもお茶によって人生の平穏が保たれるという、一つの例と言って差し支えないのかもしれません。