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知らない間に2歳若返っていた話

これまでにどれほど言われてきたことか、という台詞のひとつが
「あなたには常識がない」

これは、たとえばどなたかのお葬式に赤い服で参列するとか、行列の途中にいきなり割り込むといったものではなく、もっと馬鹿馬鹿しい、これといって誰かに被害が及ぶわけでもない小さな非常識の話です。


例をあげると、私は今が令和何年かを知りません。もう10月下旬なのに。
どこかで年号を見聞きして、その度に「へえ!」と思うのですが、それきりまた忘れてしまいます。

家族も含め、どんな人の誕生日も一人も覚えていません。
手帳に記したリストがなければ、自分は祝ってもらいながらも相手の誕生日は無視するという、不義理きわまる人間になっているところです。

人の職業は何度聞いてもすぐに忘れてしまいますし、自分の職歴も忘れています。


「あなたは生きる上で全く必要のないことばかり知っている」
も散々言われてきたことで、それと私の"常識のなさ"は大いに関係している気がします。


かの名探偵シャーロック・ホームズは、煙草の灰を見ただけでその銘柄を当てられるという能力を持ちながら、天体についてはまるで無知です。

相棒のワトソン医師に
「君は地球が周っていることさえ知らない」
揶揄からかわれるほどで、それに対し
「だからなんだっていうんだい?そんなことは、僕とは何の関係もない」
と超然と言い返します。

ホームズさん曰く"記憶の宮殿には限りがあるのだから、何でもそこに入れる必要はない。そんなことをしていたら、肝心の知識の入る場所が無くなってしまう"そうですが、私もその意見に賛成です。


などと書いたからには、私は親しい人たちの誕生日をどうでもいいと思っているのか、というご指摘がありそうですが、まさかの一言です。

とてもおめでたい日を、私も近くで祝えて幸せだとは思っているのです。けれども、いざその人の誕生日がいつかと問われると考え込まざるを得ず、たぶん夏生まれ、それも月はじめだった気がする、と勢い込んでめくった手帳の3月末に、丸がついているという次第です。


日本の歴史や地理にしても、強い関心は持っていながら、どうしても年号や場所が覚えられません。
古墳時代がどこに位置するか、駿河はどこか、都度ごとにいくら調べても、またたく間にその知識は抜け落ちます。
小学生の子どもたちが使うような、イラスト入り日本地図を部屋の壁に貼り、一年間毎日眺めてみても、やはり四十七都道府県の場所は把握できずじまいです。


それでいて南太平洋の地理については、第二次対戦を中心として、トラック諸島(現チューク)などの歴史も絡め、詳細に語れるのは何なのかと思います。

"長篠の戦い"は何度聞いても誰と誰がどこで何のため争ったかが決して記憶に残らないのに、ベトナム戦争で北軍を勝利に導いたヴォー・グエン・ザップ総司令官がいかなる人物で、どのような戦略を取ったか、という点はほとんど頭に入っています。


私は気の多いタイプで興味があちこちに分散しており、そのうちの何が記憶に定着するか、自分でもおよそ不明です。

少なくとも興味の強さや好みの問題でないのは明らかで、のめり込んで調べている問題が何も記憶に残らなかったり、大して気もそそられず、わずかな情報に触れただけの事柄を何年間にもわたって詳細に覚えている、ということも起こります。

この不可思議さは自分でもいかんともしがたいところで、いつか脳科学の偉い先生にでもお会い出来たら、真っ先に伺ってみたい案件です。


ただ、こんな特質ゆえ思わぬ得をすることもあり、つい先日、歯科医院で個人情報入りアンケートを書いて提出する、という機会がありました。

そのうち名前と住所、電話番号はすらすらと書けたものの、手が止まってしまったのは年齢です。
あなたは本当に文明国の人ですか、と尋ねられそうですが、そういえば自分の年齢を知らないことに思い当たったのです。
前回の誕生日も祝ってもらい、その時なにがしかの感慨も抱いたはずなのですが、そんな記憶は彼方です。

保険証に書かれた生年月日から計算すれば良いのでしょうが、それもなんだか面倒くさく、たしかこのくらいだった気がする、と思える年齢を書いて書類を提出しました。ほとんど当てもの状態です。


果たして無事に診察も済み、カルテを手に受付に向かいながら何とはなしに見てみると、書かれている年齢が私の思っていたものとは違っています。
私がさっきアンケートに書いたよりも、カルテの方が2歳若いのです。

大人になると誰かと実年齢を伝え合うことも少ないもので、その少ない機会にも、私は逆サバを読み、間違った事実を相手に伝えていたことになります。
カルテに記載の年齢は保険証の生年月日から算出されたものですし、そちらの方が真実なのは言うまでもありません。


自分の年齢さえ知らないとは、とさすがに呆れるところですが、思っていたより2歳若いという事実は喜ばしく、その2年があればずいぶん色んなことが出来る、何だか得した気がする、などと足取りも軽くなります。

こんな具合だから、いつまでも本気で反省せず、成長できないのかもしれません。


とはいえ、あまりにずれた間の抜け方をしていると、きちんとした人には起こりようのない、嬉しい誤算もまれにはある、という話です。

しかもこんなことがあったにも関わらず、私は間違いなく再び自分の年齢を忘れてしまうため、同じような喜びをまたどこかで味わえるかもしれません。

だからといって、別に誰にも羨ましがられたりしない、というのは承知の上ですが。



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