“オネエ”と仮面
人が三度の食事をするように、犬に毎日の散歩は欠かせません。
家の中で得られる楽しみは限られているため、よほどのことがない限り、うちの犬も朝夕の散歩に連れ出します。もちろん、今日のような記録的極寒の日も然りです。
雪混じりの風が吹き付けるなか、犬の気の済むまで歩くのですが、散歩コースの中学校前で、突然すごい願望を叫ぶ声が聞こえてきました。
「あー、次はオネエに生まれたい!」
声の主は中学生の女の子で、彼女は友人らしき他の二人に向かって、吹く風にも負けず大声を張り上げています。
「そしたらもっと最強じゃん!」
女の子は少々やけ気味な様子であり、友人たちも、笑いながらどこかなだめるような表情です。
なかなかにインパクトある宣言だと感心しつつ、私は犬とともに彼女らの前を通り過ぎます。もっと続きを聞きたいのはやまやまですが、私はれっきとした部外者ですし、女の子も、今はやや焦れた様子ながら、友人とさっきよりも落ち着いて言葉を交わしています。
“オネエ”というのは主にゲイの男性が女性的に振る舞うこと、というのが私の認識で、改めて調べてみても、やはり〈女性的所作の男性〉という説明が一般的です。
なのに、もとより女性である中学生の女の子が、なぜわざわざ、女性を擬態する男性になりたがるのか。シェイクスピア劇で〈男性を演じる女性を男優が演じる〉のにも似て、ちょっと混乱しそうな話です。
けれども私が思うに、彼女はそこまで複雑なアイデンティティーの問題に触れていたわけではなく、おそらくはもっと単純な理由で発言したのでしょう。
「そしたらもっと最強」というワードから推しはかるに、よほど何かと戦う必要かあるのか、解消し難い鬱憤が溜まっているのか。今の自分では心もとない、だから別の人になりたい、と言っているように私には聞こえました。
オネエを名乗る人たちは、キャラクターやショーとして過剰なほどに女性性を強調して演じているだけであるとか、一般的には受け入れ難いドラァグクイーンの要素を薄めただけの異端者だという捉えかたも存在します。
確かに、現実ではメディアに登場するようなオネエそのものといった男性に出会うことはありませんし、同性愛者であることをカミングアウトしている友人知人はいても、彼らが一度でもオネエ言葉を使うのを聞いたことはありません。
おそらくあの女の子も、現実で知る誰かというより、イメージの中のオネエというキャラクターへの憧れで、あんな風に叫んだのでしょう。
メディアで頻繁に見かけるオネエタレントの方々の共通するイメージをあげてみるなら、あけすけで自由奔放な振る舞い、多少のことなら笑いのめす強さ、萎縮せず空気を読み過ぎず、したたかで自分に自信とプライドを持っている、といったところでしょうか。
書いていてわくわくしてくるような美点ばかりで、彼女が私とそう遠くないイメージを抱いているなら、あの絶叫もうなずけます。
あの人たちも他人に見せないところでキツい思いをしていたり、心底落ちることもあるはずだよ、などというありふれた指摘など彼女は求めていないでしょうし、むしろ薄々それを知りつつも、自分が求める資質を持つ人たちにパワーを借りたい、と思ったのかもしれません。
「なんか時々、気づかないうちに“オネエ言葉”になってることがあるんだよね。そのほうがすんなり話せるし、不思議と角も立たないし」
とゲイではない男性から聞かされたことがあります。
その“気づかないうち”はよくよく考えてみると何か言いづらいことがあったり、場が膠着化してきた時がほとんどらしく、普段とは違う言語を使うことで、その場を切り抜ける無意識的な知恵が“オネエ言葉”なのかもしれません。
必要に応じて自分ではないものに擬態するのは、ひとつ立派な技法です。
いえいえ、そんなものは必要ありません、いついかなる場でも自分の素顔で勝負できます。こう言い切れるかたは立派てすが、オスカー・ワイルドも書いています。
「素顔で語る時、人はもっとも本音から遠ざかるが、仮面を与えれば真実を語り出す」
時に仮面を掛け替えて難局を乗り切ること。それは賢い手段ですし、仮面ならば、生まれ変わるまで待たなくとも、束の間、別の誰かになるのだって可能です。
それが誰であれパワーをくれる存在に手助けしてもらえるならば、とびっきりの仮面を選びたいですね。