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上手なことば
『見た目が外国人だからって、僕が日本語で話すと、じろじろ見るのはやめてください』
この文章の書き手は、ベルギー人と日本人の両親を持つ、13歳の男の子です。
これを読み、私の知人も全く同じ悩みを抱えていることを思い出しました。
彼女はケニア人と日本人の両親の元、日本で生まれ育ち、第一言語は日本語です。
けれど、濃い肌色にくっきりとした目鼻立ちの彼女が流暢な日本語を話すことに、たいていの人は違和感を隠しません。
未知の人からは遠慮がちに英語で話しかけられ、自分が日本語で話しても、相手から英語で返されることもあるといいます。
「自分だけ、日本社会の一員と認められてないみたい。疎外感を感じる」
彼女のこんな言葉には、外国の人がえらく難しい日本語を話している、とぽかんとする人も多そうです。
彼女が「地味に傷つく」と言う、これに関係した褒め言葉が『日本語がお上手ですね』
「上手も何も。こっちは生まれた時から日本語しゃべってるって」
彼女はそうぼやきますが、口にする側に悪意はないため、余計にもやもやするそうです。
この言葉は、日本語を話す外国人のほぼ全員が言われることで、初めは嬉しくても、だんだんさみしい気持ちになる、と日本語教室の学習者さん達から聞きました。
おそらくは、この言葉が、お互いの立ち位置の違いを強調するからだと思います。
同じ場所に立っているのでなく、内と外、上や下に分かれた中で向かい合っている、そんな感覚をいやがうえにも意識させるかのような。
相手に気軽に評価を与えることは、時に疎外や対立を生み、危険なことすらあるのです。
私がここで連想するのは、白州次郎とGHQ高官のエピソードです。
第二次大戦後、首相の吉田茂に請われ、秘書官としてGHQとの折衝に当たっていた白州さんは、あるとき民生局局長コートニー・ホイットニーに、こう声をかけられます。
「あなたは英語がお上手ですね」
それに対し白州さんは即答しました。
「あなたの英語も、もう少し勉強なされば上達しますよ」
もしこの場に居合わせたなら、瞬時にもの凄い火花が散るのが見られたかもしれません。
これは確実に戦闘であり、圧勝したのは白州さんでした。
白州さんは中学卒業後すぐイギリスに渡り、オックスフォード大学に入学、世界最高レベルの環境で学びながら、貴族の子息と家族ぐるみの親交を結んだ人です。
そんな人にとって、連合国軍最高司令官総司令部の将官とはいえ、自分よりも格下のヤンキーイングリッシュを話す相手からの発言は、我慢ならなかったに違いありません。
またホイットニー自身も、白州さんの完璧なクイーンズイングリッシュは、自らのアメリカ英語に太刀打ちできるものではないことを痛感したため、返す言葉がなかったのでしょう。
たとえホイットニーに他意はなくとも、わずかに潜む優越意識や、日本人への侮蔑を敏感に感じ取り、白州さんは手厳しい返答をしたのかもしれません。
一方的にやり込められた形となったホイットニーは、白州さんを恨み続けていたといいますし、他人に対する安易な評価付けは、考えものではありそうです。
そうすると、フランス語ネイティブのフランス人同士が
「あなたのフランス語は素晴らしい」
「彼女は上手なフランス語を話すね」
と“仲間うち”で評価し合うのは、よほど安全で有意義かもしれません。
「あの人は日本語が上手い」
と私たちは日本語話者同士で決して言いません。
けれど、それが母国語であれ、言葉を自然に習い覚えて終わり、ではなく、常に磨いてより良いものにしていく、というフランス的な態度と姿勢は、見習いたいものだと思います。
『人生を変える言葉を選ぶこと。
あなたの使う言葉があなたの人生を操っている』
アンソニー・ロビンスが言うように、言葉は大きな力を持ち、いくら注意を払ってもそれが無駄になることはありません。
人を傷つけるのも救うのも、近づけるのも遠ざけるのも、すへてが言葉であるならば、なるべく上手にそれを使いこなしていきたいものです。
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