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王子と貴婦人の復讐劇

王冠を戴く者に安らかな眠りが訪れることはない
シェイクスピアの戯曲『ヘンリー4世』に登場する有名な台詞です。
国中で最も高貴な身分であり、すべてを掌握する立場であろうと苦悩から逃れる術はない、そんな人間の運命を、シェイクスピアは繰り返し描いています。

時代が変わってもそれは不変の事実だと思わせるのが、いま世界中で衆目を集めるヘンリー王子です。
発売以前から話題をさらった著書『Spare』では、特に積年の思いが包み隠さず語られているといいます。現時点で私は未読なのですが、漏れ聞こえてくる内容からして、ずいぶんショッキングな本であるのは確かです。

カウンセラーの友人との電話中にも、その話題になりました。
これは単純な見せ物ではなく、いささか特殊なケースであり、言いかたは悪いのですが、芸能人のよくある暴露とは本質的に違います。
強大な力を持つ一国の王子が、現国王である父、実の兄との確執と軋轢をつぶさに語っているのです。国の象徴たるロイヤルファミリーの恥部を容赦なく人目に晒し、その権威を失墜させようというのですから、ただごとではありません。

ヘンリー王子は、自分の家族に復讐を仕掛けているのだ、というのが友人と私の一致した意見でした。
自分もそれ相応の報いを受け、多くを失うことは百も承知で、家族に刃を向けているのです。『Spare』というタイトルがその象徴であり、彼はその言葉を聞かされた瞬間から、自分の運命を決定づけてしまったのだろう、と私たちは話しました。
私たちが初めから同意見だったのは、それぞれ別ルートによる確信からです。友人は千人を優に超えるクライアントを診るカウンセラーとして、私の場合は文学から得た知識によってです。

バルザックという名の作家をご存知でしょうか。
“人間喜劇”と称される膨大な数の小説を書いたフランスの大作家であり、裏長屋から宮殿まで、あらゆる社会階層を舞台に、数千人に及ぶ人々の人生を描きました。フランスで「バルザックを読む者は人生を四倍生きる」と言われるゆえんです。
そのバルザックの短編に、こんなものがあるのです。

物語は、主人公の青年がうらぶれた地域の貸部屋の前に立ち、掲げられた名前を読むところから始まります。
その名は青年が憧れていた貴婦人と同名であり、社交界の華であった彼女が姿を消してからも、青年はその人を想い続けていました。
どんな不届き者がその名を騙っているのか、憤慨と好奇心混じりに扉を叩くと現れたのは、憧れの貴婦人その人でした。しかも彼女は荒んだ環境が不似合いなほど、かつての美しさとエレガンスを保っており、同時に、今や最下層の娼婦であることを恥じも隠しもしないのです。

青年がかつての知己であり、また自分に寄せる思いを知って、彼女は現在の境遇に至るまでのいきさつを語り始めます。
結婚以来、夫からもその一族からもないがしろにされた彼女は、耐え難いいさかいと軋轢の末、身一つで家を出る事態に陥りました。誰一人として味方もなく、身に起こった不幸を分かち合う相手もないまま、彼女は夫とその一族への復讐だけを望むようになっていきます。

その最も効果的な手段が、かつて輝かしい名家の一員であった自分自身が、人も憐れむような境遇に転落することでした。
それも惨めで救いがたい泥沼であればあるほど、その噂はあまねく広がり、夫と一族の権威を深く傷つけます。名誉と体面を何よりも重んじる一族にとって、その名が汚される以上の屈辱は無いと彼女はわかっていたのです。

それゆえ本来であれば相応しくない、地の底を這いずるような悲惨な暮らしも、彼女にとっては願ったり叶ったりの、満足のいくものでした。自らの幸福はもはや問題にもなりえず、夫とその一族にいかに打撃を与えるかだけが、彼女の生きる目的でした。
もはや救いはない、終わりなき破滅しかこの女性は願っていないのだと悟った青年は、そのまま彼女の元を去ります。

ヘンリー王子の本についての詳しいニュースを聞いた時、この復讐の女神のような貴婦人の登場する作品をすぐさま思い出しました。
二人の類似点は驚くべきものです。実在の人物かどうかはさて置き、彼女とヘンリー王子は、全く同じ人種に思えます。二人ともが自分の幸福は度外視し、ただ自分を傷つけ、苦しめた人々に決死の覚悟で一矢報いることだけが行動原理となっているのです。

もちろん、うがちすぎだ、そんなものは単なる推測に過ぎない、と言われればその通りであり、今後の展開いかんで、もっと別の意図があることが明らかになるのかもしれません。
ただ、私と友人の、今回の騒動はヘンリー王子の我が身をかけた復讐である、という考えは、それほど大きく誤っていないのではないかという気がします。

冒頭に挙げたもう一人のヘンリーの言葉を噛みしめるにつれ、手に余る巨大な争いや諍いに巻き込まれない一般市民であることは、大きな幸いであるように思えてなりません。

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