ありきたりでないありきたりのこと
あまりに無造作に手にしているものだからこそ、いざそれを失いかけた時に慌てふためくことがあります。
つい先日、その証明のような出来事がありました。
午後十時を回ってマンションの駐車場に着き、車内で書類を整理していた時のことです。
ふいに、その書類の文字がほとんど読み取れないのに気がつきました。
ぼんやりとなら把握できても、全体的にピントが合わず、細かい部分が見えないのです。
印刷がまずいのかと別の書類を手にしてみても、やはり文字がぼやけます。
私は両目とも視力が1.5のため、これまで目の前のものが見えないという経験がなく、余計に動揺が走りました。
知らないうちに視力が急激に低下したのか、時々耳にする若年性老眼なのか、それとも何らかの病を発症したのか。
時間が時間だけに眼科に駆け込むこともできず、文字が読めない他はさほど不自由もないために、鬱々としながらも自宅に戻りました。
幸いにも翌朝にはその症状も消え、若干の見え辛さが残っただけです。
昼間は強い眩しさ、夜は霧雨の中で目を凝らして運転を続けるなど、一日中ずっと目を酷使していたせいだったのかもしれません。
軽い花粉症により、目が充血しがちということもありますし。
それでも私は妄想たくましいタイプのため、夜の間にそれは様々な可能性を想像しました。
ここから駆け足で症状が進み、入院や手術が必要になり、どんな努力も虚しくやがて全視力を失う。
そんな良からぬ空想に慄きつつ、同時に胸をしめつけられるほど思い知ったのは、"当たり前"のありがたさと尊さでした。
もしもこのまま目が見えなくなったら、と想像した時、いま出来ていることのほとんどが不可能になると気づき、衝撃を受けたのです。
盲導犬や白杖を伴っての外出は叶うでしょうが、車や自転車の運転は無理ですし、一人で気ままに知らない場所を訪れるにもハードルが上がるでしょう。
毎日着る洋服も、慣れれば上手く選べるようになりそうですが、微妙な差異を見定めたり、アクセサリーも含めた全身の調和が取れているかなど、自分では確かめようもありません。
料理にはかなりの工夫が必要になり、食事の楽しみの多くの部分が奪われそうです。
いかなる壮麗な自然風景を前にしても、香りや空気、光のあたたかさだけで満足せねばなりません。
彫刻はまだ手で触れられる試みがありますが、絵画から得られる愉悦はあきらめざるを得ないでしょう。
身近な人の顔や表情に接することも叶わず、心を癒やしてくれる動物たちの姿も、記憶の中で愛おしむだけになります。
そして私にとって最大の恐怖が、読み書きが不自由になることです。
声で吹き込んで書き、それをまた耳で聞いて確認できても、気軽な走り書きに比べて相当の時間と集中力を要します。
点字や音訳されている本は数あれど、世の中の出版物から考えるとわずかでしょうし、私が好むようなマイナーな分野の本は、永遠にその対象にならないかもしれません。
もちろん、いざ視力を失ったなら、新しい環境に適応すべく努力を重ね、いずれは想像もしなかった境地に辿り着けることも有り得ます。
それでも、現時点の私にとって視力を失うことは、人生の喜びの多くが欠けることを意味します。
これまで私は"見える"ことを当然として、何の考えもなく日々を過ごしていたのですが、アメリカの劇作家ソーントン・ワイルダーの戯曲『わが町』では、まさにこんな問題が深く描かれています。
"グローヴァーズ・コーナーズ"という架空の町が舞台のこの物語で、初めは何一つ特別なことは起こりません。
人々は平凡な町で淡々と生き、物語が変わった色合いを帯びてくるのは、ようやく第三幕に入ってからです。
そこでは若くして命を落としたエミリーが中心となり、死者の視点で話が進行します。
生者の世界に未練を抱える彼女は、特別な計らいにより、自分の人生の"何もない"一日を訪れることを許されました。
そこで時間を過ごすうち、彼女は自らがみすみす取り逃がしていた"何でもない"ものの豊かさに気づいて打ちのめされます。
辛さに耐えかねて墓所に戻り、こんな独白をするほどに。
「色んなことが起こっていたのに、私には見えていなかった。気づかないで過ぎていったんだ…。
ああ、この世はあまりに素晴らし過ぎて、生きている人たちは、誰一人そのことに気がつかない」
彼女が胸を抉られるような思いで惜しんだのは、両親やひまわりの花、アイロンを当てたばかりのワンピース、チクタクと音を立てる時計やグローヴァーズ・コーナーズの町並みといった、ごくありきたりなものばかりです。
私は、決してこのエミリーと同じような思いをしたくありません。
空騒ぎで視力を失う心配をしたことは今となっては笑い話ですが、それが現実のものとなる可能性もありました。
人生でどんな思わぬ展開が待ち受けているか私たちには知りようもなく、それに対する備えにも限度があります。
いま無意識に手にしている恩恵が失われる時が来るとしても、その成り行きをあらかじめ知ることはできません。
そうであるなら、私たちに出来ることは、前もってその恵みに十分に注意を払い、感謝を捧げ、ありがたく用いることではないでしょうか。
いつか、それを返さねばならない時が来るまで。
ふだん当たり前だと考えている多くのことは、実は少しも当然ではなく、見えること、聞こえること、話せること、歩けること、生きていること、それらは全て奇跡のように素晴らしいことに思えます。
悲しいことにそれを手にしていない人たちは、きっとこの意見に同意してくださるでしょう。
ならば私たちは、最も蔑ろにされがちな身近な恩恵を、はっきりと意識しながら存分に活かすべきです。
それは、揺るぎない幸福にも結びつきます。
失って初めて、二度と取り戻せない貴重な宝に気づく。
エミリーのような悲しい思いを味わわずに済むように、感謝と賢明さが、常に私たちの傍らにありますように。