田中東子『メディアとジェンダー表象―新しいメディアという視点から』を読む
(2024/12/12追記)
こちらの記事をご紹介頂いた。
本記事において、私は田中東子氏の論文を「説得的ではない」「不誠実である」と書いたが、上記記事によれば、この論文は単に拙いとだけではなく「研究不正」であるという。具体的には引用元の改ざんなどが指摘されている。
私はアカデミックな訓練を十分に受けていないため、研究不正疑惑に関しては判断を保留させて頂くが、それはそれとして、上記記事を参照するならば、私の以下の本文は幾つかの点において問題が生じている。そのため、それらの点について、以下本文において追記を行うこととする。
なお、
上記記事においては上のような問題提起がなされている。私は門外漢であるが、この点について、いかなる形であれジェンダー学内部での真剣な対応を期待している。
(追記ここまで。以下、本文です)
*
Xを見ていたら、表題の田中東子氏の論文リンクが流れてきた。
おそらく江口先生は、
こちらのヤヤネヒロコ氏の投稿を見て興味を持たれたのではないだろうか。私も一応読んでみることにした。
それで、先日、『雑記:田中東子東大教授に学ぶ』に追記をして、「田中先生は表現規制に関しては抑制的に見える」「扇動に乗るべきではない」と書いたのだが、それについては撤回せざるを得ない。
この論文を読む限りでは、田中先生は抑制的とは言い難く、むしろ規制に対して前のめり気味であり、また、現在の表現規制に関する問題意識も的を射ていないと感じた。第三者のまとめを見て、「理解のある人なのではないか?」と早合点した己の不明を恥じるばかりである。
以下から、この論文(?)の内容を解説していくが、私は十分にアカデミックな訓練を受けているわけではないので、そもそもこれが論文なのかエッセイなのか発表用のレジュメなのかすら分かっていない。
また、私の感想ではあるが、この論文は非常に読みにくく、意図の伝わりにくい文章だと感じた。これが学者の流儀なのか、田中先生の構成力に難があるのかも分からないが、私の読解の方に問題があればコメントなどでご指摘頂きたい。
※論文における「女性表象批判者」と「擁護者」だが、ここでは便宜的に「フェミ」と「表現の自由戦士」に置き換える。田中先生がそういう単純化を問題視していることは理解しているが、あえて行わせて頂く。
■本稿の要旨
・フェミが女性表象を批判すると表現の自由戦士が反発するが、1990年から同じような状況があった。
・炎上には、メディアの変化(双方向化)が大きい。
・表現の自由戦士はフェミが国家による表現規制を求めていると勘違いしている。
・「萌え絵」は男性オタクだけのものではなく、女性も性消費する。
・問題のあるジェンダー表現とは「特定のジェンダーを直接的に貶め、侮辱するような表現(スラット・シェイミングやルッキズム)が使われている場合」。
・SNSのあり方を問い質し続けるべき。どういう表現が良くないのか、議論を通して共通意識を育む。
・国家による民間機関による表現自主規制の導入も検討する。(241129修正:イギリス広告基準協議会を国家機関と勘違いしていたため)
・どんなに規制しても「表現自体を生み出す社会構造」は修正できない(※規制しなくて良いという意味ではない)
■全体の構成
・はじめに
➞1990年の刊行物と2020年のツイッター投稿を比較し、「女性表象」批判に対する「代表的な反応」を比較。両者が似通っていることを指摘する。
➞その原因として2つの要因を挙げる。
➞1つは「女性差別が温存されているから」。
➞2つ目はメディアが「オールドメディアから変化したから」。
➞2つ目の問題に焦点を当てて行くと宣言。
・「I メディアはどのように変化しているのか」
➞メディアが双方向化した。
➞個人の発信力の強化により、以前なら小集団内でのコミュニケーションに終わっていたものが外部にも広がることになり、炎上を引き起こした。
➞その例としてワコールやアツギを挙げる。
➞オールドメディアでの女性表現はガイドライン策定などにより「改善」されている。
➞一方、新しいメディアは「古いメディア様式の取り込みと再利用がある」。
➞AIアルゴリズムにより「偏見」や「差別」が生産されている。
・「Ⅱ 新しいメディア環境のもとでのジェンダー表象に関する論点」
➞30年以上にわたり、、「反ポルノ/ポルノ規制派」vs.「表現の自由戦士」という単純化された議論が長い間繰り返され続けているように見える。その原因は以下の3つである。
➞1つ目、ジェンダー表象批判者が「法的規制を求めている」と、擁護者が勘違いしている。
➞2つ目。批判者は「萌え絵」を男性が消費するものと考えている。女性も「萌え絵」を消費するし、男性性も消費する。それが擁護側からは「ダブルスタンダードのように見える」。
➞3つ目。擁護側は批判側を「国家による規制を導入するもの」として、擁護側への恐怖を煽っており、「表現の自由」を個人的批判を攻撃する呪文としている。
➞これら3つの背景は「Xがそもそも議論をするのに適した場ではない」ということ。
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➞メディアの中の問題があるとされるジェンダー表現とは?
➞「特定のジェンダーを直接的に貶め、侮辱するような表現(スラット・シェイミングやルッキズム)が使われている場合」
➞「特定のジェンダーを性役割分業やそれぞれの性のステレオタイプに押し込めるような表現はいまでも多く用いられている」
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➞SNSは「メディアの中のジェンダー表現」にとっての「主戦場」なのかどうか?
➞Xのポスト(「差別的発言」「ステレオタイプの再生産」)がオールドメディアや論文化によって権威化される回路の実証的な分析が行われていない(行うべきである)。
➞Xでの言論や発言の分極化が広がっていく問題も検証されてない(するべきである)。
➞SNSのありかた自体を問い正し続けるべき。
➞ドゥルシラ・コーネル「格下げ禁止」や、マーサ・ヌスバウム「性的モノ化」のような議論を通じて、ジェンダー表現のアリナシの線引きの共通意識を育むべき。
➞イギリスのような規制(「性別に基づく有害なステレオタイプ(世間的固定概念)」を使った広告の全面的禁止)の導入を検討。
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➞表現の改善や規制では、「表現自体を生み出す社会構造」は修正できない。
■解説
・はじめに
➞1990年の刊行物と2020年のツイッター投稿を比較し、「女性表象」批判に対する「代表的な反応」を比較。両者が似通っていることを指摘する。
冒頭から次の表が示されるのだが、これがまずいきなり分かりづらい。
左側が1990年の「反応」で、右側が2020年の「反応」なのだが、初見では理解できない。そこは田中先生の演出意図だろうから良しとしても(理解できないものを見せた後、種明かしをするという演出)、「種明かし」を受けた後でも、意図が汲み取りづらい。
おそらく、行ごとに「反応」が同一であると示したいのだろうが、1行目はともかく、2行目は全く違う話である。
(2024/12/12追記)
この2行目の箇所であるが、『田中東子と研究不正』によれば引用元は「表現の自由戦士」側の反応ではないという。となると、私の上記の指摘は全く的外れとなる(より悪いが……)。
以下、『田中東子と不正研究』より画像にて引用
-------------ここから引用----------------
-----------引用ここまで-----------
(追記ここまで)
また、1,2,4行目は「表現の自由戦士」側の反応であるが、3行目だけはフェミ側の反応となっている。このあたりも混乱を招く。おそらく意図としては「昔も今も表現の自由戦士は反発していた」ではなく、「昔も今もフェミと表現の自由戦士はバトってきた」ということなのだろう。
だが、ここに本稿の大きな問題がある。
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