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雑記:怪奇譚の相乗効果

 昨日は夕方から妙に疲れを感じており、保育園に娘を迎えに行った際にも身体のだるさを覚えていた。娘に夕食をサーブしてから少し布団に入っていたら発熱。いつもなぜか自分だけ無事なことが多かったのだが、今回は轟沈してしまった。

 それで、布団に入ったままYoutubeの洒落怖系の動画を聞いていたのだが、いつもはこれをやると5分以内に寝れるのだけれど、今回はなかなか眠れず、ウトウトしたまま、かなり長い時間、聞いていた。(そのせいで悪夢も見てしまったが……)

 というわけで、今回は洒落怖の話である。

 昨日、聞いた動画で一番面白かったのはこれなのだが、前半が「同級生が行方不明になった」話で、後半が「私が姿を認知してもらえなくなった話」となっている。書き込みの時系列的には後半→前半だ。前半の書き込み主が後半のエピソードを見に行って、「まじか……」と驚いてる様子もあったりする。一つの怪奇現象を別角度から描いた怪奇譚である。

 こういうのがすごく面白い。洒落怖にはたまにこういう連作的なものがある。タイトルが思い出せないのだが、「山の中でなにかに出くわした、今度、同僚を誘って調査しに行く」→「会社の同僚二人が山に行くといって行方不明になった」といった内容のものもあって、それも面白かった。(分かる人いたらコメント下さい)

『近畿地方のある場所について』『残穢』などもそうだが、単体で成立していると思われる怪奇譚同士の間に何らかの接点が見つかり、点と点が結びついて線になりそうなところに、われわれの感興を呼び起こす何かがあるのだと思われる。

 もともとホラー作品全般にそういった傾向はある。最初は意味の分からない怪奇現象だけがあって、その「意味の分からなさ」が紐解かれていくところに面白みが生まれる。この「謎」→「謎解き」の構図は、単体の怪奇譚であってもそうなのだが、単独の怪奇譚が接続する時は「謎」→「謎」(→「謎解き」)といった風情が生まれるのがポイントなのかもしれない。謎も複数並立することで、その共通項から、ふんわりと謎解きに至る道が見えてくる。

 洒落怖のエピソードは多くが投げっぱなしである。「こんな不思議なことがあった」で終わって、「なぜ?」が全面的に解き明かされることは少ない。モキュメンタリー作品も多くはそうであり、その「解き明かされない」感覚こそがリアリティを醸しているのだと思う。「全容は解明できない」「人間の理性が及ばない世界が残されている」という感覚を、われわれはリアリティだと認識するということでもある。

 上記の動画などは、その異様な現象の「謎解き」はなされないものの、「異様な現象の只中にある本人」「その本人の周りにいた人間」という形で多角的に現象を描写している。「謎は解かれないが、謎の解像度は上がる」ことで、「想像の余地が膨らみ」エンタメ足らしめているのだと思われる。想像はしやすくなるが答えに辿り着かない、という楽しみ方とでも言おうか。

 あと、これも面白かった。心霊スポットに肝試しに行く話は多いが、これは「行かなかった」人の話。他の友人たちは行ってしまい、そして帰ってきた彼らの惨状を描いている。事象に対する視点の角度を変えるだけでも新鮮な面白みが生まれる。

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