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尊さとはお腹がすくこと、隣に座ること、小さな物語を紡ぐということ

8月16日。

大文字山の麓にもう15年住みながら、片手間にしか送り火を見たことがなくて、前日に京都をかすめた台風が置いていったじっとりした空気を吸いながら、どこで見ようか?去年は、その前は、どうしたっけ、来年こそは事前に場所を選定して、下駄を履いてさ、などと話しながらぷらぷらとそぞろ歩いて、普段は人通りなんてまばらな住宅地にぞろぞろ人が歩いている奇妙さに、このうち何人かはこの世の人ではないのかも知れないな、なんて考えながら、赤く天にのぼる火の粉の一粒一粒まで視認できるようなすぐ麓で大の字に並ぶ炎を眺めて、手を合わせてむにゃむにゃと浮かぶ限りの故人・故動物たちを思い浮かべて、またねと見送って、ばったり出会った知人と、よー燃えてますなーなんて立ち話をして、またぷらぷら歩いてトイペとアイスを買って、帰ってアイスを食べながら「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観たのでした。

つつましい小さな物語をいくら紡いでも、結局は大きな物語に回収されてしまう。
この世界に対して圧倒的に無力な僕らは、なのに誰も望まない物語をいつの間にか紡いでしまうのはなぜだろう。

ごはんを食べて、ボールを投げて、お昼寝して、歌って、SNSを見て、難しい話をして、あくびして、そうしてる間に原爆が落ちて、また戦争が始まって、海が汚されて、人が泣いていて、それでもお腹は減るし、花はきれいだし、恋もする。

触れることのできない昨日と、たぶん来る明日に挟まれて、今日も他愛無い話をするのだけど、他愛無さは価値の無さではなくて、どこにでもあるような話なのにどこを探しても見つからない、それは「わたし」の記憶と、その記憶を担保し共有する「あなた」の存在が、この小さな物語をより緻密で無二のものにしているからではないか。

映画を見終わって二人、呆然としてしまって言葉が出てこなくて、「うーん…なんというか…」「あー、ね…」なんて言って、「カモミールティ飲む?」「いいね」ってお茶を淹れて飲みながら、やっぱり気の利いた文句も感想も浮かばなくて、心はフルフル震えているのに言葉が出てこないもどかしさを、でも夜が優しく包んで、たぶん言葉以前の時代から人はこうしてただただじっと座って星を眺めていたりしたはずで、尊さは世界に素手で触れること、隣にいるということ、心を共にするということ、そこに言葉はいらないのかもしれない。

圧倒的な大きな物語を前に立ち尽くし、途方に暮れることもあるのだけれど、小さな物語すら紡げなくなれば人は名前を失い記憶を奪われ、大きな物語の構成部品として回収されてしまう、もうそうなりつつあるかもしれないから、僕は今日もあなたに話しかけようと思うのです。

この世界は記憶の共有でできているのですから。


(リオタールは大きな物語は終焉を迎え小さな物語が自律しメタ物語を必要としなくなるポストモダンの時代が来ると言ったそうだけど、結局のところ集合知としては誰も望まない大きな物語を生んでいるのではないか、ネット時代の到来で知の民主化が起こるはずが反知性主義を招きラウドマイノリティが愚衆を煽り平行線を辿るあいだに大きな物語は再生産されているようで、ルソーの言うように人間の想像力の限界の外側の世界に配慮することはできないのかもしれない、小さな物語が自律分散するだけではその外部に影響を与えず問題は放置される、しかし、だからこそ、小さな物語すら育めなくなればそれは人の終焉を意味するだろう、って話)

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