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自分軸の作り方#83 ヒットラーの子ども時代。「魂の殺人」を読んで考えたこと



「魂の殺人 親は子どもに何をしたか」


という本を手に取ったのは去年のはじめのころだったと記憶している。

すこし過激なタイトルに多少抵抗があったけれど、
レビューを確認して、
図書館で借りてみようと思った。

 私は「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画を観て、泣いたことがあるし
「アンネの日記」も読んで、ナチスドイツ、アウシュビッツで何が行われていたかを知り
ヒットラーという人を、ただ恐ろしい独裁者だと思っていた。

けれど、どんな育ち方をした人なんだろうか、と興味が湧いたのは、脳神経や自律神経について学ぼうとし始めた頃のことだ。


Amazonの、この本の説明を、ご覧ください。

出版社からのコメント
◆「躾」という名の暴力◆ 
教育や躾の名による暴力は子どもたちの魂を粉々に打ち砕き,社会はいずれ手 痛い復讐を受けずにはすまない。ヒットラーや少女娼婦クリスチアーネの幼年時代を詳細に分析して,教育の暴力性と非人間性を容赦なくえぐり出した衝撃のロングセラー。

◆本文一部◆

一度でも母となり父となったことのある方なら、そしてなんにでもほっかむりをしている人でないなら、子どもの性質なり行動なりの中に許し難いものを見て苛立った覚えがおありだと思います。自分の子どもを愛しており、その子の個性を尊重しようと思っていながらそれが出来ないわけですから、自分の子どもにそのようなところを認めるのはとてもいやなものです。頭でいくらいろいろなことを知っているからと言ってそれだけで寛大になれるものではありません。私たち自身が子どもだった時代に私たちに投げつけられた軽蔑を意識して生き、研究することがあれば、私たちもまた子どもたちに軽蔑を投げつけることになるのです。いくら児童発達の法則についてよく知っていても、それだけでは怒ったり憤ったりしない保証にはなりません。子どものふるまいは私たちの考えていることだとか必要としているものに上手く当てはまるとは限らないし、そればかりか私たちの防衛機制を脅かすようなことだってしないとは言えないのですから。

◆目 次◆
まえがき
生命力の迫害としての教育
いわゆる「闇教育」/「光の教育」はあるか
沈黙の劇の終幕

はじめに/自己自身に対する殲滅戦/アドルフ・ヒットラーの子ども時代/ユルゲン・バルチュ/この章の終わりに
恐れ、憤り、そして悲しみ
わざとしたわけでなくとも無慈悲な行いは痛みをもたらす/シルヴィア・プラスと苦悩の禁止/押し殺された憤怒/知る許可
あとがき


19世紀の終わりに、ドイツでは
「闇教育」
という教育が行われていたようだ。
その教育について、文献を紹介しながらふれられていた。


幼少時にわがままを言うようになり
泣きわめくようになることは 教育を妨げる。
わがままを機械的に一掃したら、従順・温順、善良なこどもとなる。
二歳か三歳になるかならずのうちに行わなければならないもうひとつの教育は
両親及び上長に対する絶対の服従と
なんでも子どもらしく一生懸命やり
不満をも持たないことの習得である

としている。

一例として挙げられていた女の子の話がある。

その当時、女の子は教養よりも、刺繍や編み物をすることが尊ばれた。

ある女の子が、本を読みたくて
親から課題として与えられた編み物を頑張って2日分を1日でこなし、1日はこっそり本を読んでいた。
それに気づいた母親は、娘に探りを入れる。

そして、女の子がうっかり本当のことを言うように誘導していき、

嘘をついていたことがばれると 
冷ややかな目で見、何も言わずに部屋を去るのだ。

そして、嘘をつくことがどれほど卑劣なことかを
ことあるごとに伝える。
それでも、女の子は本を読みたい気持ちが抑えられない。

とうとう、母親は父親にも娘が嘘をついていることを伝える。

父は語る。
私はあなたをいつも疑わなくてはならない。
あなたのせいで。

女の子は、もうしません、と父親に泣いて訴える。

父親は
私はあなたを、信頼したい。と伝える。

毎日、「今日はうそをついた」「今日はうそをつかなかった」というノートを提出させ、
毎日無垢の象徴として白いリボンを髪に結ばせ
嘘をついた日には黒いリボンを結ぶように言い

鏡を見るたびに自分が無垢であることの大切さを確認させ
「嘘をつくこと」の卑劣さを植え付けていく。

(それでも、女の子の探求心は抑えられるものではなかった)


こんな風に、親が子供をコントロールしていく様子が紹介されていた。

子どもにとって、親の言葉や態度は
抗えない脅威だ。


この本の中で

大人になってから強迫神経症になったり
猟奇的殺人を犯すようになった人
大麻中毒の少女娼婦など
何人かの例が紹介されている。

厳格だったり、
潔癖だったり
暴力的だったりする親の元で
物心がつく前から自分の主張をする隙を与えず
ただ親に従うことで存在を認められ、
自分の意志というものに気づきもしないくらい
コントロールされてきたことが書いてあった。

子どもは、決して親を嫌いにはならない。


ヒットラーも、父親から鞭を打たれて育っている。母親も、何か言えば自分が鞭うたれるので、それを陰から見ているような人だった。

彼は「痛みを外に表さないのは勇気のある証拠」という冒険小説を読んで、
鞭打たれている間は声を出さない、
自分も勇気ある男の子になると決意し
父親の鞭の数を父とともに数え
母親に 顔を輝かせて「お父さんは僕を32回もお打ちになったよ」と
誇らしげに知らせにいったそう。

親に完全に服従するよう教育されたとしたら
その子どもの心は 感情は
育てられることがなく
見つめてもらう機会もない。

でも命がある限り 自我は湧き出てくる。

湧き出てくる自分の感情を、
見つめることが許されない環境で育ってきた人にとって、それは
あってはならないもの
不快なものとしか
感じられなくなってしまうのかも知れない。

この著書の中で作者は
ヒットラーは、
自分の子ども時代にされたことを、強制収容所でユダヤ人に行い、
「彼自身の自己の中にある弱い子供の追放」を可能にした

と表現している。

自分に暴力をふるっていた親を
否定する方法を知らなかったヒットラー。

「魂の殺人 親は子どもに何をしたか」

というタイトルが回収される。

彼は生まれつきの殺人者だったわけではない。


現代に生きる私たちが
子育てをする中で
子どものわがままとも見える行動に動揺することもある。でもそれは
その子が持っている欲求の表れで、
生きる力のあかし とも言える。

そして大人である私たちにとっても。

わがままを許してもらった経験がないと
子どものわがままを見て
どうしようもない不快感や怒りを覚える。

他者に対して何か不快感を抱く時
怒りが込み上げる人もいれば
逆に、「こんなことを思うのは、
自分のわがままだ」と自分を責める気持ちが
出てくる人もいるかもしれない。


「自分」が「自分」であると受け止めるということは、
わがまま を受け止めることかもしれない。

湧き上がってくる、その不快な「何か」を

自分の感情として そっと見つめ
これも自分の一部なんだな、と 
受け入れることが
大切なことなんじゃないかと思う。

だんだん、その不快感が
不快感ではなくなっていき

自分を柔らかく受け止めていけるようになるのだろう。

魂は、全力で生きようとしている。
それを抑え込むことは、将来
大きな歪みを生むことになるんだと
この本から教えてもらった。

そして、その後。

「ちゃんと泣ける子に育てよう」という本の出会いがあり、
子どものわがままを
泣いている子供を抱きしめる という
一つの答えを得たのだった。



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