往復書簡_青木彬:01_「不確実な場所から」
最近なかなか3人で集まることができていませんね。
直接会って話が出来ないと僕はどうもやりにくい性分なので、もどかしく、また不安も募ります。
喫茶野ざらしが開店してから3ヵ月が経とうとしていますが、新型コロナウィルスによってこのような状況になるとは全く考えていませんでした。ましてやそれが、野ざらしの活動を促進するための二階の改装費を募るクラウドファンディングと重なるとは、本当に予期せぬタイミングとなってしまいました。
さて、この往復書簡の書き出しは僕からスタートすると、先日野ざらしで晴矢さんと話して決めてしまいました。簡単に前提を書き添えておくと、なかなか会うことが難しい、オンラインミーティングもそれぞれの仕事や家庭のタイミングが合わない、いっそのこともっと違う時間軸で話し合いをしてみようということで往復書簡をすることになりましたね。3人いるので、誰が誰にという明確な宛先はなく、書きたいように進めていきます。
往復書簡、いいですよね。日々感じた些細なことや、その瞬間の空気が文字として残ることは、特に今、とても大切なことだと思います。これだけの事態になると、みんないつの間に大きな主語に流され、自分の言葉を失いそうになりはしないでしょうか。ここでは小さな主語を大切に書き進めていきたいと思います。
冒頭に、「会えないことが寂しい」と言いました。これは素朴な本心なのですが、キュレーター、と名乗る上でも大切にしていた姿勢なのです。10年ほど前、とあるアートプロジェクトに関わっていた大学生の時、そのプロジェクトのディレクターが、「アートプロジェクトはとにかくそこに居ることが大切だ」と、忘年会の席か何かで言っているのが心に残りました。
とにかくその場に居合わせること。空間を肌で感じて、同じ空気を吸うこと。気まぐれに居るように見えて、僕はそれをかなり意図的な振る舞いとして行うように心がけており、それはプロジェクトに関わるメンバーとのコミュニケーションでもありました。そこから得る情報や感情は、何にも増してプロジェクトを面白くする重要な要素です。
例えば今、リモートワークに快適さを感じたり、反対に不都合を感じる人達がいると思います。オフィスが必要かどうかは人それぞれ意見は異なるでしょうが、否応なく、直接集まれる場所のことについて考える人も多いのではないでしょうか。
もう少しこの、場、ということについて続けます。僕は以前、公共劇場に勤務していることがありました。2つのホールの他にも館内には稽古場やレストランなどさまざまな施設がありました。これくらいの規模を維持するって、当たり前ですが本当に大変で、ひとつの場所に所属することが恐怖にすらなっていました。
その後、2016年に東京都墨田区にspiidという住居兼アトリエを友人のアーティストと借りることにりました。この時も実はとても不安で、場所なんか持ちたくない!という気持ちがいっぱいでした。でも、ここは長屋の一角の小さな木造家屋。これくらいなら大丈夫かも…という極めてフィジカルな判断材料で借りることを決めました。
“人と集まれない”という今の状況を経て、「場」の意味は大きく変わると思います。それは、単にその価値が見直されるというよりも、もしかするともっと暴力的な、異なる転回をする気がするのです。
例えば多くの企業の「オフィス」は効率化を目指した空間だと思います。しかし、業務の効率化だけを目指すなら大概のことが自宅でも補完されてしまうのではないでしょうか。僕も最近の仕事はリモートワークになり、オンラインミーティングばかりです。オンラインでのミーティングは情報を共有するだけなら良いのですが、新しいアイディアを積み重ねることには不向きだなと感じています。話し相手がどんな言葉に反応しているか、何を考えているか、目の前に相手がいないとどうしても感じられないものがあるようです。また、話し手と聞き手が明確に別れてしまうのも、リズミカルな議論を生みにくい気がします。
一方のアートの現場は効率化とは異なる不確実さに溢れているのではないでしょうか。良いアートプロジェクトの拠点となる場所は、その不確実さを誘発するための仕組みが自然と出来上がっています。特定のコミュニティにおけるあらゆる関係性はいつの間にか保守的に閉じてしまいがちですが、その関係性を解きほぐすのは、不確実性であり、そしてまたその不確実性は気まぐれで非効率に思える振る舞いによってもたらされるのだと思います。
きっと効率的なだけの場所はこれから淘汰されてしまうと思います。自宅という場所が安心するためではなく、暴力的にすらなってしまうことを体験した今、自然と「場」に求められる質が変わってくると考えています。
そういう時に、例えば東京の都市の隙間に現れる喫茶野ざらしのような空間はどんな意味を持つでしょうか。限られた空間、限られた時間の中で、アートを通じて当たり前だと思っていた価値観が揺れ、答えのない曖昧さの中にゆっくりと立ち止まることができるシェルターのような存在になれないでしょうか。
そんな不確実さは、人為的なものだけでもありません。そもそも芸術とはリプレゼンテーションです。その先にあった自然はとても不確実な存在です。
昨年はあまり力を注げませんでしたが、農業や植物に触れる経験は楽しいですね。人間とは異なる時間軸と向き合う経験はとても有意義です。
福島県の大玉村に訪れた時も、佐藤さんの鋳造の作業現場などを見て、どういう背景であの野ざらしの空間が出来上がったか、どこか腑に落ちるところもありました。
そういえば新型コロナウィルスに対して戦争という言葉を使う人もいますが、もっと違う関係があるはずではないでしょうか。勝ち負けでは測れない、ウィルスの時間軸もある気がします。
とはいえ、コロナ禍で喫茶野ざらしの営業も非常に厳しい状況に置かれていますね。今後の活動についても当初予定していたような内容はしばらく難しいのかもしれません。
この状況がいつ、どのように収束していくのかは正直わかりません。でも、コロナによって浮き彫りにされたのは、都市という生態系が抱えていた経済、物流、人的なネットワークの問題であり、そこにいる一人一人の生活が問い直されていると言えるはずです。
喫茶野ざらしが考えようとしていた都市論、そしてなにより野ざらし自体が、端的にそうした状況へ応答していくための場ではなかったでしょうか。
僕たちが何かしらの「創造力」に突き動かされてこの喫茶野ざらしという場所を始めたことに変わりはないと思います。
様々な不確実性が漂う場に耕していきましょう。
photo by コムラマイ