往復書簡_中島晴矢:03_「野ざらし的なものから野ざらしへ」
コロナ禍の状態について取り留めもなく、俺からも書いておこうと思う。俺は今、「喫茶野ざらし」のカウンターでこれを書いている。先週から来客はめっきり減って、かなり暇で。それでもテイクアウトをはじめたから、1日に数人はテイクアウトをしてくれたり、密にならないような形で店でコーヒーを飲んでいってくれる人もいるけれど。密って言っても、そもそも野ざらしは滅多に混まないからね。すごくディスタンスなカフェだと思うよ。カフェ・ド・ディスタンス。純喫茶・距離。なんでもいいんだけど、そう思ってるとやっぱり「野ざらし」という言葉が本来持っている非・三密感みたいなのが浮き彫りになってきたりして。三密、壇蜜、あんみつ。あんみつとか出したいなぁ本当は。これからスイーツやフードを揃えていきたかった、でもその矢先でのこの状況だから、どうしてもね。
お客さん無く一人で喫茶店にいてもつまらなくて。ものすごくつまらない。というか、鬱々としてくる。個室じゃないんだよね、喫茶は。不特定の人が出入りして、喋ってたり本読んでたり、パソコンで仕事してたり、各々が勝手にやって初めて喫茶店という場所は立ち上がってくる。佐藤研吾の空間は最高なんだけど、人がうごめいてないと生き物としての空間にならないんだ。この前『出没!アド街ック天国』の25周年の特番で、初代宣伝部長の愛川欽也が「街は建物じゃないんだ。人なんだよ」って言ってる映像が流れてたけど、マジでそういう部分があるな、と。人がいなくなった街は、陳腐な言い方をすれば「死んだ街」だし、喫茶店もそうなんだよ。お客さんが出入りしてくれなくちゃダメなんだ。
でも色々手は打たなきゃいけないし、ビラ作ってこれから撒こうとかね、さっき言ったテイクアウトもそうなんだけど。作家としても、野ざらしで展示しようと思ってた作品をオンラインで出した。NOZARASHI EXHIBITIONシリーズ「Field #0 」。これから展覧会を積み上げていって、いろんな作家にやってもらっていくつもりだけど、どうなることやら。で、《野ざらしの決闘》というのを撮ってね、要するに喫茶野ざらしで無観客のプロレスしただけなんだけど、これ、元々はマルチモニターで空間的に見せようと考えてたわけ。ただ展示を開くのが難しそうだから、結局vimeoでリリースした。これは苦肉の策なんです。やっぱりアートを見せる場合、空間を作り込んで、そこで作品に出会って欲しくてものすごく設計してるわけだから、お客さんの動線から何から。ネット上で見せると、情報量が極端に少なくなるし、ネット上でお金を払ってもらうことの難しさを実感するよね。どうしたってネット上の課金となると、数々のストリーミングサービスとかと比較しちゃうし。リアル空間での展示が絶対なのかと言われたら自信が無くなってくるけどさ、どうも悔しくて。
あと、我々のやってきたことってとことん「密」であることを前提にしてきたなと思い直したり。すごく無駄なことだよな、とか。生存に必要ない。ドイツ人は芸術は生きる上で必要不可欠だと言うかもしれないけど、日本人は多分違う。いや、違くないか。どっちだろう。少なくとも、俺の作品は不必要だろうね、生きていく上で。それは自覚したな。だいたい、心が落ち着いてないと制作も鑑賞も十分にできないよね。豊かさが問い直されているというか......なんなんだろう、頭が混濁してきたけど。
本当はもうある部分、何もしたくないよね。でもそうも言ってられないから、足掻くしかない。足掻きを晒すしかないわけで。都市全体が足掻いてるような。今こそ街が裸なのかも。いや、そんな綺麗なもんじゃないな。あらゆる店舗にシャッターが降りてる様は、骨格のみになってしまった街。裸を通り越して白骨化した街かもしれない。そうするとまさに街全体が「野ざらし」という感じになって、この場所に話は戻ってくる。来年、できるかどうかわからないけど、オリンピックが終わったら本当に東京は焼け野原、被災地、焼け跡、ぺんぺん草一本生えないような風景になってるだろうなぁ。俺らは焼け跡派か。そこから何ができるか、考え始めないといけないね。もしかしたら、関東大震災後の、東京大空襲後の、そんな浅草や墨田、東京がヒントになるかもしれない。ヒントというか、リアルな切実さを伴って眼前に広がっていくんだろうな。この物件もなくなってるかも? これが本当の「野ざらし」......お後がよろしいようで。って、そんなこと言ってる場合じゃないんだけど。