見出し画像

ホテルと幽霊

 6月だというのに、夏日だ、真夏日だと暑苦しい。なんでも、年間5か月程度は、夏日なのだそうだ。夏になったので、幽霊話もよかろう

 ある時、大手ホテルチェーンのホテルに泊まり、たまたま仕事の関係もあって、そのホテルの支配人と、元そのホテルチェーンに勤めていたという経営者の三人で、バーで軽く飲んだことがある。

 その時に、「せっかくですし、こんな機会はめったとないので、伺ってもいですか? やっぱり、出るんですか?」と聞いてみた。

 「まさかそんな」と即座に返事が返ってくると思ったら、二人が顔を見合わせ、若い方の経営者が先輩である支配人に、「どうします?」と言う。「どうしますってことは、そういうことですか?」と聞くと、二人が笑った。

 若い方が、「そうですねえ、ホテルですから、いろんなことがあります。そういうことがあった場合は、部屋の内装もすべて変えて、でも、要するに事故物件ですから、一泊目は若手が、たまにはお客の目線で見てくるのも大切だとか言われて、泊まらされるんです。私も、泊まったことがありますよ。」と言う。「そうですねえ、私はそういうのを見たり、体験したりというのはないのですが、もし客室に入ってなにか落ち着かないとかいうことがあれば、ルームチェンジを申し出れば良いと思いますよ。実は、先日、家族で行った時に、どうにも落ち着かなくて、子供たちの様子もおかしかったので、部屋を変えてもらったことがありました。同業者なので、それ以上、なにも聞きませんでしたが」とほほ笑んだ。

 私は、全くその手の感覚も才能も欠落しているらしく、部屋に入るなり異常を察知するなんて芸当はできそうにない。私の友だちの一人などは、「なんでわからないかね?だいたいおかしいと思ったら、部屋に掛かっている絵を裏返せば、判るさ」と言う。もちろん、別の友だちは、「馬鹿だなあ、そんな素人に見つかるようなところにお札だの十字架だの貼ってわけないだろう。額縁の中に入れてあるはずさ」と言う。何も感じていないのに、ホテルの部屋に入って、額縁を下して、額を外して調べるなどという蛮行に及ぶのは、さすがに気が引ける。

 たぶん私は、他の人に比べて、年間にホテルや旅館に泊まる回数が多い方だろう。その30数年間の中で、未確認不思議体験は、二回だけだ。

 一度は、ある地方の古い旅館に泊まった時だった。夜中に突然、ガタガタミシミシ音が出て、三回ほど目が覚めた。二階は使われていない大広間であることは見せてもらったし、隣にも泊り客はいない。国道をトラックでも走っている振動だろうと、布団をかぶって寝てしまった。翌朝、ぐるりと旅館の周りを確認してみると、近いと思った国道は、かなり離れ、大型車が通っても振動すら感じない。キツネにつままれたような感じで、その旅館を後にした。

 もう一度は、こちらはあるビジネスホテルだ。夜遅くにチェックインして、自分の部屋に落ち着き、シャワーを浴びて、さて寝ようと思ったら、壁の向こうからぼそぼそと男性二人の話声が聞こえる。まあ、安いビジネスホテルにはよくあることで、時たま、いびきがずっと聞こえるなんてこともあるので、あまり気にしていなかったのだが、なにか揉めているような、そうでもないような何を言っているのか聞き取れないのだが、壁に耳を付けると、人が動く気配がする。一向に止まないし、眠れないというほどではないので、そのまま寝てしまったのだが、翌朝、気になって確認すると自分の部屋が一番端で壁の向こう側は外だ。これもなにかキツネにつままれたような感じでホテルを後にした。

 未確認不思議体験が二回ほどしかないのだから、まあ、私はその程度の感度の人間なのであろう。いずれのケースも寝不足にもならず、なにも見ることもなかった。気のせいか、寝ぼけていたのに違いない。

 さて、バーの三人で、ひとしきりホテルの幽霊話で盛り上がり、時間も経ち、そろそろ部屋に戻ろうかなと時に、支配人が後輩の経営者の方を向いて、「なあ、幽霊よりもさ、怖いのが、今日も来たよ。うまく断ったがね。」と言って、ふふっと笑った。経営者は、「またですか。面倒ですね」とやはりふふっと笑った。

 支配人は、微笑みながら、私にこう言った。

 「ホテルって、本当にいろいろな方が来るんですよ。幽霊も怖いですが、足で歩いて入ってくる人間の方が、ずっと恐ろしいですよ。私もこのホテルに赴任してきて、フロントで、ああ、刺されると覚悟したことがありました。ええ、今日はそういう方はいらっしゃいませんから、ご安心しておやすみください。おやすみなさいませ。」

いいなと思ったら応援しよう!