サリエリと陰謀
モーツァルトの歌劇『フィガロ結婚』が1786年に初演される際に、モーツァルトの父レオポルトが書いた有名な手紙がある。
その陰謀を企んでいるのがサリエリだとして、モーツァルトとサリエリの敵対関係を象徴する一例として名高い手紙である。
しかし、この手紙をいま一度ドイツ語で読んでみると、また違う想像も浮かんでくるのである。
直訳すると
「彼(モーツァルト)が成功すればそれはすごいことだ。というのは、そのことに敵対する強力な陰謀団がいることを私は知っているから。サリエリと彼を支持する全ての人たちが、再び天と地を揺るがすために、あらゆる努力を傾けることになるだろう」
となる。
ここで、"陰謀団"と"サリエリ"を同一視すると、「天と地を揺るがす」ことがすなわち「『フィガロ』の失敗」のことなのだと読めてしまうのだろう。
でも、"陰謀団"と"サリエリ"は異なる存在であるとすれば(同じだとは書かれていない)、「すごいこと=『フィガロ』の成功」がすなわち「天と地を揺るがす」ことだとも読めて、そうなるとたとえ陰謀などがなくても困難だとされる『フィガロ』上演のために、サリエリと部下たちが必死で奔走していた… という読み方も可能になるのだ。
かのロレンツォ・ダ・ポンテを王室に紹介して台本作家としたのはかのサリエリであった。1785年の9月、つまりモーツァルトが『フィガロ』の作曲に没頭していた時のこと、そのダ・ポンテが書いた台本を使ってサリエリとモーツァルトが共同で"ある友情"を示すためのカンタータを書いた。
この友情について、話が横道にそれるようではあるが、大事なことなので書いておきたい。
1783年、パイジェッロの『セビリアの理髪師』のウィーン初演で主役のロジーナを歌い、ウィーンを席巻したナンシー・ストレースというソプラノ歌手がいる。ナンシーは1785年10月にサリエリの歌劇『トロフォーニオの洞窟』に主役オフェーリアとして出演予定であり、おそらくモーツァルトの『フィガロ』のロジーナ役を彼女が歌うこともすでに決まっていたかもしれない。
そのナンシーが、ヴァイオリニストである夫との関係のこじれを機に、その年のはじめから身体を壊してしまい、6月には声が出なくなってしまったのであった。そのまま引退かと危ぶまれたかどうか、しかしナンシーの声は3か月で出るようになった。そこでサリエリの『洞窟』の主役オフェーリアの名前にかけて、サリエリとモーツァルトはカンタータ『オフェーリアの健康回復によせて』を共同で作曲したというのである。
モーツァルトが誰を介して『フィガロ』のドイツ語台本を持って、王室付き詩人ダ・ポンテに近づいたのか、それはわかっていないという。
ダ・ポンテを王室に紹介したのはサリエリである。だとすれば、憶測であれ、なぜそこに彼らに一番近いはずのサリエリの名前がまったく出てこないのだろう?
歌劇『フィガロの結婚』がめでたく初演されたあと、すぐにパリに向かい、『フィガロ』の原作者ボーマルシェとの共同作業で歌劇『タラール』を書いたのもサリエリであった。サリエリがパリから『タラール』を持って帰った際、そのウィーンで上演するためにその台本を手渡したのは、やはりダ・ポンテであった。数年後、ダ・ポンテは『トロフォーニオの洞窟』の設定を一部拝借して『恋人たちの学校』という台本を書き、もともと作曲するはずだったサリエリからモーツァルトの手に渡ったその作品が、最終的には歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』となった。
はたから見れば、あたかもサリエリとモーツァルトの共同作業のようにも思えるこの状態をどのようにイメージすることが出来るのか、歴史はまだ証言をしないままでいる。
『フィガロの結婚』は、原作であるボーマルシェの戯曲に貴族批判が強くあるとして、母国フランスで発禁処分となったほか、たびたび上演禁止の憂き目にあっており、ウィーンでもシカネーダーによるドイツ語上演が禁止となった。そのような状況下で、なぜモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の上演が可能となったのか、いまでは大きな謎とされている。
どのような力が働いたのかはわからない。
歌劇『フィガロの結婚』は果たして無事に初演を迎え、その後の世界を震撼させることとなった。