アルバン・ベルクの相対性理論
『コンタクト』という映画を観た。
ジョディ・フォスターが「自分が見たことのないものは信じない。たとえそれが神であっても」などと言いながら演じる即物主義者の主人公が、NASAが宇宙から傍受した設計図をもとに組み立てた宇宙遊泳装置に一人乗り込み 、時空・次元を超えた旅をする…というお話。
次元を超えたところの知覚は、結局はいまここにいる自分が知覚・認識できるものではない。つまり、存在しないことと同じであるという諦念と、その存在しないものからはこちら(いまここにいる自分)が見えているはずだという憧れの交錯は、おそらく夢の概念と同じくらいに古い時代から人の頭の中にあったものなのではないか。
光の速度を絶対化することで、夢の概念を地上に引き摺り下ろした「特殊相対性理論」は1905年に発表された。
空間と時間は絶対的なものではなく不安定なもので、その歪みのあらわれが「重力」であるという、おそらくほとんどの人にとって「夢」の中でのみ馴染みがあると思われたあの感覚が、ついに方程式になったのである。
「夢」を「実在」として扱う。もしくは「実在」を「夢」と認識して遊泳するような空気は、特殊相対性理論の以前からウィーンに存在していた。
ウィーン大学で学んだエルンスト・マッハが『力学の発達』を発表したのは、ワーグナーが死んだ1883年のこと。
知覚できない物は信じないと言いながら、空間と時間は絶対的なものではないと喝破したマッハの考え方は、すでに当時広く受け入れられていたらしい。であるとすれば、重力が空間の歪みを示しているという相対性理論のような考え方が、和声といういわば音楽の重力のようなものにおいても理解されていたとしてもおかしくないのではないだろうか。
和声を様々な形で観測しようとしていたその時代の空気がより身近に感じられるのではないかと思って、ここまで話をしてきた。
さて、アルバン・ベルクがピアノソナタを書いていた(1907-08)のも、ウィーン大学の教授であったエルンスト・マッハがまだウィーンに生きていた頃の事である。それは『夢判断』(1899) を書いたジークムント・フロイトがまだそのあたりを普通に歩き、すれ違っても誰も気にする者のない時期のウィーンでもあった。
音楽はすでに時空の歪みの中に置かれていた。
ラヴェルの夜のガスパール(1908)と弦楽四重奏曲(1904)がそれぞれ1909年と1910年にパリで出版され、バルトークの弦楽四重奏曲 第1番(1908)が1911年にブダペストで出版された。
ベルクのピアノソナタは出版社に受け入れてもらえず、仕方がないので自費で少しだけ出版することにした1910年、その焦燥の中で「弦楽四重奏曲」を書いたのであると、アドルノはベルク本人から聞いたらしい。
もとから出版されるものとしてピアノソナタを書いていたのだとすると、そこにベルクらしからぬ「ロ短調」という調号があることと、全3楽章として構想されたこの作品が第1楽章のみで完結となったことに、少しばかりの推理が成立するだろう。
・新人が書いた「無調」のピアノソナタを出版する土壌はまだ無いと判断されたこと。
・ピアノソナタの後に書かれた『4つの歌曲 op.2』では、3曲目までは調号がありながら、4曲目ではすでに無調となっていること。
・つまり、出版社に受け入れられない限りは「ロ短調」の作品をこれ以上書き続ける理由がなくなっていた可能性があること。
上の事はあくまで推理にすぎないが、果たして歌曲のあとに書かれた『弦楽四重奏曲 op.3』からは調号が取り払われていたのである。
絶対的な和声は感じられないが、その歪みとしての重力は存在する。
調号があってもなくても、そのような空気を受け入れていたウィーンの風、ベルクはそれを音楽でしかあり得ない方法で消えない時間の中に刻んでいたのではないかと思われるのである。
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'24年12月24日 (火) 20時開演
「ベルク&フォーレ」
松本望&若林千春 piano
ベルク:ピアノソナタ op.1 / 弦楽四重奏曲 op.3
フォーレ:弦楽四重奏曲 op.121
https://www.cafe-montage.com/theatre/241224.html