86歳が綴る戦中と戦後(3)奉安殿
日本中の国民学校が同じだったのか、あるいは東京だけだったのかわかりませんが、校庭に奉安殿という神社のような形をした小さな建物がありました。
中には御真影(ごしんえい)と呼ばれる(昭和)天皇・皇后両陛下の盛装した姿の写真と教育勅語が入っていたようです。
毎朝校庭での朝礼はその奉安殿に最敬礼することから始まりました。
教育勅語は暗記もさせられましたが、始業式終業式、入学式や卒業式では必ず校長先生が読み上げ、私たち子どもは難しい言葉の羅列に意味も分からず「早く終わらないかな」とばかり思っていました。
南方の島々がアメリカ軍の手に落ちてからはそこを基地にB29爆撃機が爆弾や焼夷弾を積んで日本の上空へ飛来するようになり、空襲がひんぱんにあるようになりました。
また航空母艦からの小型の艦載機P51は爆弾は積めないので偵察と機銃掃射が目的です。
これは家の建てこんでいる都会よりも地方の農村や田園地帯のほうが多く、超低空飛行で来ては隠れる場所がなく逃げ回る人たちめがけて機関銃を撃ちまくるのですからたまったものではありません。大勢の人や子どもが亡くなりました。どんなに恐ろしかったことでしょう。
都会では空襲で火の手が広がらないようにと強制疎開とかいうのが行なわれていました。
建て込んだ地域の中の何軒かの家を取り壊して空き地を作るのです。
政府が用意した別の場所に移転する人もいましたが、それを機に田舎へ疎開して行く人たちもいました。
個人的に知りあいや親戚があってそこへ疎開するのを縁故疎開と言いましたが、そのような場所のない家庭の子どもたちは学童疎開と言って、東京では各区ごとに疎開先の県が決まっていました。
どこも5年生と6年生はお寺、4年生と3年生は旅館と決まっていたようです。
2年生以下は小さすぎて集団生活は無理ということで父母の元に残されました。
私の住んでいた中野区の疎開先は福島県。4年生だった私は飯坂温泉の池田屋という旅館へ行くことになりました。1944年のたしか7月頃だったと思います。
(ずっとあとで聞いた話では杉並区に住んでいた友人は長野県の別所温泉だったそうです)
出発の日はランドセルを背負い、手には着替えや洗面道具を入れたカバンや袋をさげて校庭に集合しました。何となく遠足気分でウキウキしていたのを覚えていますが、上野駅から汽車に乗った瞬間に父母との別れが実感となって、急に悲しくなり泣きだしてしまいました。