86歳が綴る戦中と戦後(18)転校

前回で書いた若い英語の先生の教え方は画期的で、単語の意味を教えるのに日本語は使わず動作で示したり、教科書にはないブラウニングの詩を教えてくれたり、放課後英語に興味のある生徒たちを集めて「英語クラブ」というのを作って英語のジョークを教えてくれたり、英語劇をしたりしました。

そのどれもがとても楽しくて私は英語がどんどん好きになって行きました。しかしおじいさんの校長にはそのやり方が気に入らず、先生は1年で辞めてしまったのです。

先生は辞められる直前何人かの女子生徒の家を訪問されて、出来れば女子校への転校を勧めておられ、うちにも見えたそうです。

一緒に新制中学に進学した近所のMちゃんとは毎日一緒に登校していましたが、Mちゃんもあまりにガラの悪い中学が不満で、いつも彼女のお姉さんや従妹たちが通っていた女子校がいかに素晴らしい学校かを話すのです。

明治3年に創立された東京でいちばん古い女子校だとか、キリスト教のミッションスクールなので外人の先生がいて英語が盛んだとか、母娘や姉妹で行く人が多いとか聞くうちに私の中ではその学校への憧れがどんどん強くなって行きました。
しかも私たちの家から歩いて10分の所にある聖路加病院の辺りが創立の場所と聞いていましたから、先生から女子校への転校を勧められた時にはその学校が先ず思い浮かびました。

すると丁度中学2年の2学期からの編入試験があると聞いたので、そこを受けることになりました。それまでの1クラスを2クラスにするための編入試験だったのでなんとか私の成績でも合格しました。
Sちゃんも3年生になってから転校して来ました。

憧れの電車通学が始まりました。
その頃には都電が復活していましたので、永代橋ー目黒間を走る5番線に乗り、日比谷交差点で11番の新宿行きに乗り換えて麹町4丁目で下車。帰りは中央線で通う友達ばかりなので一緒に四ツ谷駅まで歩いてそこから都電に乗りました。
(卒業後は同じ都電で今度は日比谷で9番の渋谷行きに乗る換えることになりました)

その学校でもある種のカルチャーショックがありました。
私が住んでいたのはいわゆる下町で、住んでいる人たちも江戸っ子ですから言葉はそう丁寧ではありません。とうちゃん、かあちゃんが普通で女の子でも「あんたさぁ、そいでさぁ、~なんだってばさぁー」みたいな威勢のいい話し方をしますが、山の手育ちはもっと丁寧。
先生の前では「わたくし」と言うし、「父」とか「母」とか言うのです。おとうさん、おかあさんが普通で、中にはお父様お母様と言う人もいました。

もっとお上品な学校のように「ごきげんよう」までは言いませんが、話し方の調子がずいぶん違うので最初は戸惑いました。
今はテレビのお陰か、地方も都会も下町も山の手も言葉はあまり変わらなくなりましたが、私の心の中には未だに江戸っ子魂が残っているようで、本気で怒った時などついべらんめえ口調になってしまいます。(笑)


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