マリオ・バルガス=リョサ『困難な時代』(仮)
最近はみんながnoteで文章を展開するものだから、僕もやってみようかと思う。基本的に、Blogと重複することはあるかもしれないが、あるていどまとまったレヴューなどを。
ブログ上で既に途中報告をしていたのではあるが、今年度の授業で読んだ小説:
Mario Vargas Llosa, Tiempos recios, Alfaguara, 2019.
グワテマラへのCIAの軍事介入を扱った小説。 “Antes”(前)と “Después” (後)という名のプロローグとエピローグがつき、本文は32章。奇数章と偶数章で別々の物語が語られるというバルガス=リョサお得意の構成。
プロローグではユナイテッド・フルーツ社長サム・ゼムライと広報担当エドワード・L・バーネイズが手を組んだところから始まり、1954年、グワテマラでの10月革命と呼ばれる民主化運動によってユナイテッド・フルーツ社の利益が失われることを危惧した二人が、ゼムライの提言にしたがって革命を共産主義の驚異としてメディアを操作して喧伝することを決定したことが語られる。
本文では10月革命後、フワン・ホセ・アレバロの後継者として選挙で選出された大統領ハコボ・アルベンスの農業改革と、それを脅威に思ったユナイテッド・フルーツの工作による反共キャンペーン、それに便乗する形でこの政権を打倒しようとした国務大臣ジョン・フォスター・ダレスとCIA長官アレン・ダレスの暗躍、その意図を受けてあからさまにアルベンスに退陣を迫る在グワテマラ米大使のジョン・エミール・ピュリフォイ、クーデタ未遂でオンドゥーラス(ホンジュラス)に逃げ、CIAの助けを受けながらグワテマラ解放軍を指揮して政権転覆を目ざすカルロス・カスティーヨ=アルマスらの、いわばパワー・ゲームが語られる。一方でカスティーヨの愛人となるマルタ・ボレーロ(ミス・グワテマラ)の最初の結婚とそこからの逃亡、カスティーヨの愛人となったいきさつ、そしてカスティーヨ暗殺に加担した公安局長エンリケ・トリニダー=オリーバやジョニー・アッベス=ガルシーアの仕事とその後の人生(彼らも暗殺される)という、裏面史および後日譚も語られる。
カスティーヨ暗殺に加担したジョニー・アッベスはドミニカ共和国の独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーヨの秘密警察SIMの長官であったことから、小説は、俄然『チボの狂宴』(2000/八重樫克彦、八重樫由貴子訳、2010)ともテクスト上の関係を持つことになる。『チボ』では語られなかったトルヒーヨ暗殺後のアッベス=ガルシーアの人生らも語られているのだから。
エピローグではカスティーヨ暗殺後アッベスに連れられてドミニカ共和国に渡り、そこで反グワテマラ=反共キャンペーンのラジオ番組で人気を博し、さらにはトルヒーヨ暗殺後アメリカ合衆国に渡ったマルタ・ボレーロに、作家本人を思わせる「私」がインタヴューすることになる。その後インタヴューの実現に協力してくれた作家仲間と会食し、一連の事件についての意見を交換する。こうした、いわばオートフィクション的でもあり、ジャーナリズム風でもあるところは、たとえば『マイタの物語』(1984/寺尾隆吉訳、水声社、2018/邦訳の著者名表記はバルガス・ジョサ)らとも共通するところと言えそうだ。
ユナイテッド・フルーツ(現・チキータ・ブランズ・インターナショナル)の中米カリブ海地域における存在感と、それを口実に行われた合衆国の政治介入の数々については語り尽くせないほどの問題がある。本作でも一度だけ名前の出てくるグワテマラの作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスにはこの問題を扱って「バナナ三部作」と呼ばれる作品群があるし、ガルシア=マルケス『百年の孤独』のバナナ農園労働者の虐殺のエピソードもアラカタカ近くに存在するユナイテッド・フルーツのプランテーションで起こった事件をモデルにしている。そうした事情は、僕も野崎歓・阿部公彦『新訂 世界文学への招待』(放送大学教育振興会、2022)第9章に書いた。バルガス=リョサが、その問題に切り込んだ作品だと言っていいだろう。合衆国の利害を体現しハコボ・アルベンスに退陣を迫るジョン・ピュリフォイの頑迷さは読んでいて苛立つばかりだ。そしてそれが決して他人事とは思えないから怖い。
グワテマラの国内問題としてみれば、カスティーヨ=アルマス暗殺以後、この国はさらに最悪の内戦状態へと突入していくし、小説内ではそのことも僅かに触れられているにはいる。その最悪の内戦の犠牲者として知られることになるのがリゴベルタ・メンチュウであり、内戦後を描いて興味深い小説がロドリゴ・レイ=ローサやオラシオ・カステヤーノス=モヤらによって書かれているわけだが、バルガス=リョサがあえてアルベンスの失脚とカスティーヨの暗殺を描くのは、彼の全仕事の中に位置づけると首肯できる話だ。
ところで、疑問点がひとつ。小説内でのグワテマラ人たちは二人称単数の代名詞にvosを使い、それに対応する動詞の活用はラプラタ風( “tenés” など)になっている。これは正しいのだろうか?
広大なスペイン語圏の少なからぬ地方では、二人称単数の親称túと敬称ustedに替えて/加えてvosを使うところがある。これは1) tú の代わりか、2) túよりもさらに親しい相手に用いる第3の二人称である場合がある。さらに活用はa) tenés 式、b) vosotros と同じ tenéis など c) tú と同じ tienes などという分類があるというのが、僕の理解するところである。グワテマラでの用法は詳しくは知らない。ネットでざっと検索した限りでは少なくとも2) ではあるようだ。が、果たして、活用はどうなのだろう? と思った次第。今度調べておこう。
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