イスラエル社会の問題を「素人」が「演じる」...映画「ハッピー・ホリデーズ」
東京の秋の二大映画祭とえば、東京国際映画祭と東京フィルメックス。どちらも銀座周辺が会場。前者はすでに終了し、中東関連映画を中心に、10本ぐらいみただろうか。
後者は現在、まさに開催中。今年の中東関連映画は、ここで紹介する「ハッピー・ホリデーズ」のみ。中東関連映画を中心にウォッチしている身としては、一本だけというのは少し寂しかったものの、この作品、東京国際映画祭でみたものと合わせて、一、二を争う強い印象を残した作品になった。会場は、銀座の映画館「丸の内TOEI」。すごく久しぶりに中に入った。
作品がとても印象的だった理由を、大きく分けて【イスラエル社会】【ドキュメンタリー的手法】の2点に分けて、取り急ぎ、書いてみたい。
【イスラエル社会】
映画の舞台となっているのは、イスラエル北部の都市ハイファ。いわゆるアラブ系住民が多く暮らしていて、イスラエルの中では、比較的多様性がある街だといえる。文化芸術都市、という色彩も濃い。作品ではさらに、ユダヤ教の宗教都市ともいえる西エルサレムなども登場するので、ハイファという街のそうした特徴が、映像からもストーリーからもにじみ出ている感じがした。その辺の監督の手法も心憎いものがある。
この作品の中心にいる「アラブ人一家」は、最初に「アラブ系住民」という言葉で説明した人々と同じカテゴリーに属する。パレスチナ人ではあるが、日本で、一般的に思い浮かぶかも知れないパレスチナ人とは、立ち位置が異なる。つまり、ガザやヨルダン川西岸、あるいはアラブ諸国、欧米などで暮らす難民のパレスチナ人とは、立場がかなり違うといっていい。
上映後のコプティ監督をゲストにしたトークセッションでは、登場人物「パレスチナ人」(監督がそう言ったからなのだが)と呼んでいたこともあって、難民の立場にある「パレスチナ人」との違いにとまどっている人も会場にいたような感じだった。
作品に登場する「パレスチナ人」は、1948年のイスラエル建国(パレスチナ側は「大破局」と呼ぶ)の後も、イスラエル国内に残ってくらしてきた人々だ。もちろん、イスラエルの中で暮らすことに対して、それぞれにさまざまな思いを抱えていると想像するが、イスラエルという国の「秩序」の中で生活している。イスラエルに激しい敵意を持ってイスラエル軍に投石したりする、ということは基本的にはない人々だといっていい。
実際、作品に登場する、比較的富裕なアラブ系の一家は全員、ヘブライ語を話し、企業経営者の父は、ユダヤ人の国民とも取引きがある。娘のフィフィは、エルサレムの学校でユダヤ人たちとともに学び、友人にユダヤ人もいる。息子のラミーは、ユダヤ人の女性と交際している。フィフィに思いを寄せるアラブ系男性ワリードも医師としてユダヤ人とも働く。彼らをめぐるいくつかの家族の中の事件とその波紋を描きながら、イスラエル社会が抱える問題点をあぶり出すという手法が、作品に説得力とリアリティーを与えていた。
作品はフィクションだが、こうした設定・エピソードは、今のイスラエルの現状を自然な形で表現しているといっていいだろう。この作品が興味深い点のひとつは、そうしたイスラエルのリアルな風景を、「アラブ系一家」を中心に据えて描いた点にあるだろう。言い換えると、イスラエルが抱える矛盾・問題を「アラブ系住民」の目線でとらえる、というアングルに新鮮さを感じた。
さきほど「息子のラミーは、ユダヤ人の女性と交際している」と、さらっと書いてしまったが、アラブ系住民とユダヤ人の恋愛のエピソードには、驚いた人もいるかも知れない。イスラエル・パレスチナ紛争が激化しても、特にイスラエル国内においては、いやがおうでも様々なコミュニケーションは続くわけで、カップルも生まれるのむしろ自然なことといえる。英語で「ミックスト・カップル」という表現が使われる。ただ、紛争が長期化する中で進む両者の分断の深刻化もあって、アラブ、ユダヤ、それぞれの社会から否定的にとらえられ、抑圧されるケースが多い。
ガザやヨルダン川西岸で第一次インティファーダ(対イスラエル蜂起)が始まった直後の20年ほど前、そうした「ミックスト・カップル」をユダヤ人の側からケア・サポートする民間活動団体の人に話を聞いたことがあった。この作品にもあったように、家族の強い反対にあったり、自分の家族に秘密にせざるを得ないというケースが多いと話していたが、その団体は、外国への政治亡命を手伝うなど、2人の恋愛が成就するよう手助けしているとのことで、感じるものがあった。
そうした経験があっただけに、作品に登場したユダヤ側のサポート団体が、アラブ人との絶縁を主眼として、支援しているように描かれていたことに、ちょっと驚いた。私が以前、話を聞いた団体とはかなり異なるスタンスであり、ひょっとすると、この20年の紛争が、ユダヤ人とアラブ人の分断がそれだけ進んでいる、ということなのか、とやるせない気持ちになった。
その一方で、ユダヤ人とクラブでパーティーに繰り出すなど奔放な「交流」をするフィフィのような人物もいて、そうした行動が、今も保守的な考え
が強いアラブ系の母親や男性からは批判的にとらえられている、という現実も描かれていた。
トークで監督が、娘のフィフィの奔放さに怒り狂う母親を例に、「自分の価値観を悪気なく押し付けている(変われない)人々」といった言葉を使っていたが、監督が描きたかったのは、そうした固定観念から抜け出せない「古い人たち」だったのかも知れない。
兵役拒否のために仮病を使おうとするティーンエージャーの娘に怒りをぶちまけるユダヤ人看護師の母親が登場するが、「変われない」人間はユダヤ系の側にもいることを指摘して、その問題はイスラエル社会全体にある、といいったのだろう。
【ドキュメンタリー的手法】
上映後のトークイベントに登壇したコプティ監督によると、起用した俳優の多くが素人。特に中心的な配役は全員素人で、映画上の設定の仕事についている人物だったという。これには驚いた。台本を渡さず、ストーリー上の立場を考えてもらい、その状況で自分は何を言うか考え、演技をしてもらう。そういうことなのだろう。自然な演技をしてもらうためには、ストーリーの時系列順に撮影する必要があり、撮影にはとても時間がかかったという。
このユニークな俳優起用演出方法の話の中で、監督が「フィクションのパラドックス」という言葉を紹介していたのも興味深かった。初めて聞いた言葉で、監督の真意がよくわからなかったが、「フィクションを演じる人が、その架空の設定の中で本当に生きているかのように演じられるようになる」といったことだったのか。いずれにしても、プロの俳優を起用しなかったことが、この映画のリアリティーをさらに高めたことは確かだろう。イタリア・ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門の最優秀脚本賞を受賞したのも、そうしたユニークな手法が評価されたのだろう。
会場は、思っていたよりは多くの観客が詰めかけていた。作品の前評判が高かったからなのか、ガザ紛争が泥沼化する中でイスラエル・パレスチナのことを知ろうという機運が日本で高まっていることなのか。
おそらく日本では、遠くないうちに劇場で一般公開されるような気がする。イスラエル国家の根幹のひとつといえる兵役の拒否を扱ったことが理由なのかは分からないが、イスラエル国内では上映が認められていないという。自分は、いち早く鑑賞することができて「かなり得した」と思いながら、会場を後にしたのだった。