「太陽の男たち」--パレスチナ人作家の原作と映画シーンの違いが示すもの
太陽という存在は、人間にとってとても重要なものであることは間違いないが、地域や場面によっては、ネガティブなものとしてとらえられる場合もある。
中東、という地域も、そのひとつだ。初めて中東のエジプト・カイロに住むとき、ちょっと驚いたことがあった。「家は北向きのほうが良い」という常識だ。ご存知のように、日本人は主要な窓が南に面している家やマンションが好まれるが、エジプトにそうした常識はまずないのだ。北に面して陽があまり差し込まないほうが好まれる。カイロでマンション探しをしたのは、7月の夏の盛りだったこともあり、実感として納得したことを覚えている。
シリア映画「太陽の男たち」(1972年)の題名にある「太陽」も、そうした中東の太陽観にそったものだ。「太陽がいっぱい」「太陽にほえろ」「太陽の季節」など映画・テレビ番組・小説のタイトルの基底にある太陽観とはかなり異なる。
パレスチナ人作家ガッサン・カナファーニーの同名小説の映画化である「太陽の男たち」の中の太陽は、死と直結したおぞましい存在である。
東京・ユーロスペースで行われた「イスラーム映画祭8」で上映されたこの映画の読み解きは、上映後のトークセッシッションに登壇した岡真理・京都大教授の解説が、とてもためになった。
アラビア語で書かれたアラブ文学が専門で、カナファーニーをはじめとしたパレスチナ人の文学作品の翻訳もしている岡さんだけに、いちいち納得することが多かった。
だから、ここでは、トークセッションの岡さんの解説を私なりに要約することで、映画レビューにかえたいと思う。その一番興味深い部分を記すと、ネダバレに直結してしまうのだが、その点はご承知おきいただきたい。
1947年のイスラエル建国で、故郷を追われることになったパレスチナ人たちは、ヨルダン領やエジプト領になったヨルダン川西岸やガザ地区、あるいは周辺国の難民キャンプで辛苦の生活を送る。そうした中、主人公のパレスチナ人男性3人は、働き口を求めて、ペルシャ湾岸産油国のクウェートをめざそうとする。
ルートはイラクの砂漠地帯を南下して、陸路クウェートに入るルート。パスポートも持たない彼らは密入国しか手段がなく、トラックの荷台タンクに隠れて、国境入管をすり抜けることを試みる。
岡さんの指摘で興味深かったのは、原作小説と映画のラストシーンの微妙ともいえる相違点だ。カナファーニーが書いた小説では、タンクの中で灼熱にもがき苦しむ3人は、壁を叩いて苦しみを訴えなかった。車を運転する密入国の手引き役は、「なぜ、お前たちはタンクの壁を叩かなかったのだ!?なぜ、なぜ、なぜ」と叫んだと書かれている。
一方、映画では、3人がタンクの内壁を叩く音が織り込まれていた。
小説では、壁を叩かなかったのに、なぜ映画では3人に壁を叩かせたのか。この変更について岡さんは、小説が発表された1963年と、映画が作られた1972年の間のパレスチナ問題をめぐる変化があると指摘する。
小説でカナファーニーは、壁を叩かない3人を描くことで、「自分たちの存在を世界に訴えない限り、難民キャンプで難民として朽ちていくしかない」という厳しい現実を、パレスチナ人たちに訴えたかったのだという。小説を書いた頃のカナファーニーには、パレスチナ人が、3人のように「個人的な、あるいは私的な生き延びだけを目的にしている」と映り、そうしたことを続ける限り、「難民キャンプという、国境と国境のはざまのノーマンズランドにも等しい空間で、世界から忘れ去られ、死んでいくしかない」と確信していたのだろう。
それから10年後、映画が製作された時期には、状況に変化があった。パレスチナの民族自決権や帰還権を求める政治運動が活発化し、1964年には主張もイデオロギーも異なるさまざまなパレスチナ組織が結集して「パレスチナ解放機構」(PLO)が創設。1967年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸やガザがイスラエルに占領され、パレスチナ武装組織の反占領武装闘争が始まる。カナファーニー自身も、1967年に創設され、PLOに加盟したパレスチナ解放人民戦線(PFLP)のスポークスパーソンになっていく。
こうしたパレスチナ側の動向を踏まえて、映画では、3人がタンクの壁を叩ている場面が描かれた。
そのシーンが込められたメッセージは、「壁を叩いて訴えるパレスチナ人たちに、周辺アラブ諸国を含めた世界はどう答えるのか?」だったという。
映画は、反イスラエルの急先鋒で、国内に多くのパレスチナ難民が暮らしていたシリア。映画監督をエジプトから招き、自国の主張を世界に発信するために、この映画がは作られたという側面もあるだろう。
小説のほうを確認はしていないが、映画では、クウェート側の入国管理官を、ベリーダンサーとの遊興をうらやましがる堕落した人物として描く。経済力はあっても、パレスチナの大義のために動こうとせず、快楽におぼれる人々だと、ペルシャ湾岸諸国人を痛烈に批判しているかのようだ。
国境をこえられずに、もがき苦しむ人々はその後もさまざまな局面で現れたと岡さんは指摘した。戦火を逃れ、ヨーロッパを目指したが、国境を越えられなかったシリア人などだ。
パレスチナ問題についても、一度は「難民であることをやめ、政治的主体となった」パレスチナ人たちを「再度、難民に鋳直」(Politicide)そうというのが、イスラエルの戦略だと岡さんは指摘している。