イラン映画「白い牛のバラッド」
中東にあるイランという国。40年余り前に起きたイスラム革命で、神政一致のイスラム法学者による国の統治が始まり、今も続いていることで知られている。イランがイスラム体制の国、ということはもちろん事実なのであるが、だからといって、そこで暮らす国民すべてが、イスラム教の教義を信奉しているという訳でもない。それは、革命から30年後のイランに2年半ほど暮らしての実感だ。当たり前のことではあるが、ひとりひとりの国民みんなが国家に従属して暮らしている訳ではない。
イランが、グローバル化する世界の一部であることも事実。西洋の動向に関する情報を摂取しながら、人々は体制のルールに盲目的に従うのではなく、むしろ、しばしば体制の方向性に疑問を抱き、そうした国でさまざまな悩みを抱え、苦しみながら生きている。
日本で2022年2月公開予定のイラン映画「白い牛のバラッド」(Ballad of a White Cow)も、そうした現代のイラン人の心のありようを描いた作品だ。同国の司法制度や運用の是非を問いかける内容で、とてもシリアスで重厚な作品だ。
死刑執行の後に
夫が殺人罪に問われ、死刑執行されて、娘を育てるため必死で生きる主人公ミナ。ところが、執行から1年後に夫の無実が明らかになる。そんな中、ミナの前に現れる謎の男。ネタバレを避けるため、ここで詳しく説明することはしないが、裁判をめぐる被告の家族や、裁きに関わる司法関係者の苦悩が濃密に描かれていく。
この作品が提起したものの一つは、「死刑制度の是非」という、イランに限らず、世界中で論議を呼び続けている問題だといえる。
死刑という刑罰がなければ、つまり最高刑が無期刑あるいは有期刑という司法制度であれば、本当は無実だった人間の命をうばうこともなかっただろう。登場人物の1人は、そうした苦悩と格闘する。イランは、日本と同様、世界の中で死刑制度のある国のひとつだ。果たして死刑制度は正しいことなのか、という、死刑制度を持たない欧州的な観点からイラン体制への疑問が呈されているようでもある。実際、この作品は、イラン・フランス合作で欧州映画界が関わっている。
作品は、イランの死刑制度の妥当性について、イスラム教の聖典コーランの1節をさらりと紹介することで何かを訴えようとしたようだ。
報復を是とする考え
ある登場人物は、「神の報復は生きる本質」というセリフを語る。日本語への翻訳されていて定かではないが、これはコーランの「雌牛の章」の1節「この返報法こそは汝らにとって生命の源なるもの」(井筒俊彦訳、岩波文庫)のことだろうと思う。
このコーランの言葉からは、「殺人を犯した(と認定された)人間を死刑とするのは、イスラム教の教えにかなうものである」という考え方が導き出せる。「ある登場人物」はこのコーランの言葉を述べることで、イランの司法制度を統括するイスラム体制の考えを代弁したとも言えるだろう。
もうひとつ、この作品は、神(アッラー)が主権を持つイスラム体制にあって、人を裁くのは神なのか、人(裁判官)なのか、というイスラム教徒にとって、深遠な問題にまで踏み込む。
やはり件の「登場人物」のセリフだ。「裁いているのは預言者、人間(裁判官)ではない」と話す。なかなかスッと理解しにくいが、イランのイスラム体制のもとでは、人間は主権者である神の代行者にすぎない、ということになる。つまりこれを敷衍すれば、人間の誤ちで冤罪が生まれても、それは神の意志であり、人間には責任がない、という考え方にもなる。
死刑という司法制度は是なのか、あるいは、人間を裁くのは誰なのか。イスラム体制のもとで半ば必然的に発生する、そうした神学的ともいえる疑問について作品は一応の答えを示しているようではある。
建前を暗に批判
世界のどこにあっても、ひとは、生身の人間として悩み、苦しむ。イランのイスラム体制の中で、いってみれば「建前」のようなものと対峙して、悩み、苦しむ。それは、人間ならば当然の、普遍的な心のありようといえるのかも知れない。
この映画は、イラン・イスラム体制の建前である「復讐法」や「死刑制度」などをオブラートに包みながらも暗に批判し、現在のイスラム体制に異をとなえる見方を織り込んでいるようでもある。
イランは映画検閲が厳格だと言われるが、実際には、監督や映画産業は、その網をくぐって、表現の自由を追求しているといえる。この映画も、ぎりぎりのところでレッドラインを踏まないように細心の注意を払い、製作されたのかも知れない。あるいは、近年のイランの検閲が、かなり寛容になっているのだろうか。
「白い牛のバラッド」は2月18日から東京・日比谷の「TOHOシネマズ シャンテ」などで公開が始まる。
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