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日常のカフェを守るための、思考のエスキス


写真は『アメリカンチェリーとイチジクのタルト』。

普段は大きなタルト生地を焼いてそれを切り分けて作っているが、今回は小さなタルトリングを使ってタルトを作ってみた。

『アメリカンチェリーとイチジクのタルト』



つい先日、営業中に大勢の人が店の前に集まっていた。

何やらカメラや集音マイクを持った集団で、その集団を代表して、1人の男性がドアを開けて店に入ってきた。

「○○テレビの者なんですけど、取材させてもらえませんか?」

とのことだった。

申し訳ないけど、ワンオペのバタバタした時間帯だったので、取材を断った。

ワンオペのバタバタした時間帯でなくても、基本的にはテレビの取材をお断りしている。

さらにいうとどのメディアもノーアポでの取材はお断りしている。

アポイントを取ってくれた、雑誌媒体や新聞、webメディア、ラジオなら極力取材を受けるようにしている。

テレビというのは、テレビ放映された際の一瞬の効果は大きいが、『反響が大き過ぎる』のが、こちらにとっては良くないことの方が多い。

反響が大き過ぎると、常連さんを追い出してしまうことになるし、とにかく放送後の『ケア』がとても大変になってくる。

ある種、テレビに取り扱われる、ということは、そのお店が『観光地化』してしまうのだ。

それを良しとするかしないかは店主の判断だが、うちのような小さなカフェが『観光地化』することは、『やりたいお店の雰囲気』ではない。

僕がお店をやるのは『生活者』のため。

生活における『如何ともし難く、カフェの時間を必要としている人』のためのお店を作りたい、と思っている。

テレビスタッフには申し訳なく思うけど、こちらにも事情があるのでご理解いただきたい。

尾鷲にはもっとテレビ映えする飲食店もあるし、テレビ取材を好機と捉えているお店も多いので、そちらにお任せしたい。

うちは、地元の人を相手にするだけでも手一杯な、小さなお店なのだ。



先日、友人に借りたムック本、『kotoba』(集英社)。

2024年夏号の特集は『喫茶店と本』。

その号の中で、堀部篤史氏の寄稿した『喫茶店のディスクール 余禄と補遺』という文がとても面白かったので、一部を省略しながら引用したいと思う。(省略部分を読みたい方は、『kotoba』夏号をご購入ください)

以下、引用。

『喫茶店のディスクール 余禄と補遺』

多重構造の街

 京都の街は幾層ものレイヤーが重なり合うようにしてできている。
(中略)
 バスに乗って河原町通りを南下すると、三条から四条にかけての3分足らずのあいだに、車窓からいくつかの行列を目にすることができるだろう。つい最近は六角通りを少し下がったあたり東側の牛カツ店、その少し前は、四条通りのすぐ手前にしにあった、抹茶味のスイーツを供する甘いもの屋、そのもうちょっと前は三条商店街脇にあったタピオカショップ。それ以前にも同じような行列を目にしているはずだが、思い出せない。お手上げである。
 それらは三、四年程度で現れては消えを繰り返し、モザイクのようにして街の連続性をぼやかし続けている。(中略)しかし、生涯のほとんどの時間をここで暮らす地元の人間にとって、行列を作っては消えてゆく店の数々は、街の一部ではなく、ごく一瞬たち現れる蜃気楼に過ぎないのだ。
 牛カツもタピオカも、ティラミスもピラニア釣り(昔、河原町界隈に実際にあった)も、ヨソの人間が金儲けのために、人通りの多い一等地で短期的な金儲けを画策した結果生まれる現象だ。彼らは、瞬間最大風速がすぎれば、また別の業態、別の都市で出店すればいい。そもそもその土地には縁もゆかりもないのだから。
 それに対して、店の二階で暮らすような人間が、生業として潰れないために悪戦苦闘し、長期的な存続を目的とするタイプの店も細々とあるにはある。その2種類のせめぎ合い、というよりも前者の一方的な優勢によって、短期間に街並みが一新され、虫歯のように古くからの商店が存続している、というのが、多くの地方都市の現状であろう。
 しかし、地元の店とグローバルチェーントの二項対立だけでなく、もう一層別種のレイヤーが加わるのが、京都の複雑なところである。ヨソの人間がヨソの人間、つまり観光客やインバウンド向けに営む店と、ヨソの人間がどこにでもある業態の一つとして始めた、要するにチェーン店。そして、祇園や上七軒のような花街に見られるような、地元の人間が戦略上ヨソの人間、つまり観光客やインバウンドの方向に舵を切った店と、要請に応える形で地元の人間が地元の人間を相手に営む店。大きく四つのタイプに分けるとしよう。
 その四種類に良し悪しはあるが、棲み分けという意味においては、はっきりしていれば互いに利点もあるだろう。
しかし昨今のこの分類に混乱が生じている。「地元の人間が地元の人間を相手に営む店」がある種の観光資源となり、都市部からやってくる観光客は足を運びたがり、結果として地元の人間はそのような「地元の人間が地元の人間を相手に営む店」に行列が生じ、結果入れずに、「ヨソの人間がどこにでもある業態の一つとして始めた店」、要するにチェーン店に足を運ばざるを得ないというねじれが生じているのだ。
 地元客が締め出されるだけでなく、そもそも地元客を優先していた店が、行列や、撮影目的の客に疲弊し、店を畳む事例も少なくない。並んでいいのは、非日常。デイリーな朝食用のパンや、買い物ついでの一服のために行列に加わるくらいなら、すっと入れるチェーン店の方がマシ。こだわりのないチェーン店は、客の自由度が高いという意味で丁度いいときもある。

(中略)

店は誰のものか

 ついこの間、御池と市場、河原町と烏丸の四本の通りにはさまれた碁盤の目を自転車に乗って徘徊していると、工事物件が目についた。近づいてガラス窓の張り紙を見てみると「角打ち店近日オープン」とある。
 「角打ち」とはそもそも北九州発祥と言われる酒屋が店内で売り物を提供する延長で、ちょっとしたツマミを出すようになった業態のことだ。酒屋が営業上少しでも売り上げを、と始め、常連客のリクエストに応えるうち、酒を提供する延長でアテのようなものも出し始める。その結果、普段酒を買わない一見客まで、呑みに来るようになった、という自然発生的なものだったはずだ。しかし、この場合は違う。はじめから「角打ち」を名乗って酒屋を作ろうとしているのだ。なぜ普通の酒屋ではないのだろうか。
 それは「角打ち」というスタイルそのものが今や付加価値となっているからだ。ただの居酒屋よりも、常連の目が気にならない、敷居の低い角打ちでのんでみたい。経営側にとっての必然性を、消費者の要望が上回る時代。
「地元の人間が地元の人間を相手にして営む店」に付加価値を感じ、旅行者が足を運ぶ際に、「ピカピカの角打ち店」とよく似た現象が生じる。つまり、店側の必然性から生まれた、常連客に対するメニューやサービスを、商品として解釈し、消費することで、店の思惑を超えてその場が劇場のようになるのである。
 常連へのサービスとして見せていた演劇的接客や調理スタイルを、映像におさめるべく店側に要求する客、初めて訪れる店で、SNSで目にした裏メニューや賄いのようなものを要求して通ぶる消費者、「地元の人間が地元の人間を相手に営む店」が存続した結果である老舗の喫茶店に、「レトロ」という名を与え、しらみつぶしにめぐり、撮影したメニューを見せ合う人たち。
喫茶店に並んで入るということ自体がイベント的であり、そのうち、数十分並んでここのエスプレッソを、などという倒錯した現象まで起こりかねない。行列という行列は、街をテーマパーク化してしまう。店側も行列を受け入れた時点で、「地元の人間が戦略上ヨソの人間を相手にする店」になってしまうのだ。
 テーマパーク内のカフェは、店構えや、供されるメニューが、「そこならでは」でなければならない。それが古い町屋を改装した店構えであり、「京風」、あるいは、縁もゆかりもない西海岸や北欧スタイルである。こうして、一つのレイヤーであるテーマパークとしての架空の街が浮かび上がる。
 このテーマパークは、ヨソから来た観光客だけでなく地元の住民をも笑顔で受け入れてくれる。あえて「ヨソ」と排他的に捉えられかねない表現を繰り返してきたが、これは地理的な文脈で内部と外部を隔てる意味ではない。生活者から見た、テーマパークに関わる人々のことである。
 二十一世紀以降、街はある種の戦争状態に置かれている。これまで素朴に語られて来たグローバル対ローカル、という明快な構図ではなく、内外関わらず、街をテーマパーク的に捉える人々と、ある種のコミュニティとして捉える人々との無言の争いだ。
 なぜテーマパークではいけないのか。集客により街が活性化されれば、地域を活性化するのではないのか。そう問う人もいるだろう。
 しかしテーマパークには入場料が必要だ。そこで供されるあらゆるサービスは、情報価値であれ希少価値であれ、現実世界の物価にちなんでなんらかの形で上乗せされたものである。そのような「手数料」はかならずヨソの人間が手にし、本来コミュニティ内のみで行われる経済に中間搾取が介在することを許してしまう。
 それに、昼の憩いの場に人が殺到してしまえば、常連客は泣く泣く他所を捜すしかない。テーマパークと生活圏は隣接ではなく、重なっているのだ。そして何より、喫茶店主も本屋のおっさんも、ミッキーマウスやマリオブラザーズでは無い。
(中略)
 同じエリアに、テーマパークとしての街と、生活者にとっての街が重なり合い、見るものの態度によってその姿を変える。それは京都だけでなく世界中のすべての都市で起こっている現象だ。
 喫茶店や書店というの場所は、「なくても生きていける」嗜好性の高いものを扱うが故に、街のあり方の分水嶺、リトマス試験紙として機能する。なくても生きていけるが、あれば豊かになる。そういったものを求める客のあり方が街や店を、テーマパークにも、コミュニティにもする。

「いい人」と「いいヤツ」

 「なくても生きていける」ものを喫茶店や書店に求める奇特な客を、仮に「いい人」と「いいヤツ」とに分けてみる。
 「いい人」は、喫茶店や書店を、消えゆく存在として慈しみ、大切にする。町の本屋を守りたいから、遠くまで足を運び、その店とは縁もゆかりもない本をわざわざそこで注文し、行列してまで喫茶店に足を運んではお金を落としてくれる。会計の際に差し出すクレジットカードは楽天やamazonのロゴ入りで、店と彼らとの間にヨソを挟んでいることに対しては無自覚だったりする。
 彼らは、もう一つの別種のレイヤーの街を描き、そこを右往左往する。『三丁目の夕日』のような、近所の子供達が小銭を握りしめ駆け込む本屋を求め、蝶ネクタイをしたマスターが寡黙に味気ないコーヒーをたてるさまを夢想する。彼らはある種の聖人で、街の文化度を守るべく、身を挺して貧乏暮らしに足を踏み入れたというステレオタイプなイメージを求められる。
 「なくても生きていける」もの自体にロマンチシズムを見出し、必要以上権威化してしまうのが「いい人」たちなのだ。
 かつて「町の本屋」が大事にされていたのは、インターネット以前、時刻表も道路地図も、『ぴあ』も参考書も必需品であった時代、本屋は醤油や米のような必需品を売る場所だったからだ。喫茶店も同じく、SNSもスマートフォンも普及する以前は、その場自体がソーシャルであり、街歩きの重要な拠点でもあったはずだ。
 商品価値の半分を損なってしまった本屋は「場」を売り物にするしかなく、「場」としての求心力を失いつつある喫茶店は特別な「商品」としてのコーヒーを売り物にするしかない。
 そんな状況で「いい人」は素敵な本屋の内装を眺め見学し、喫茶店にコーヒーの流行を求める。いずれも善意からの行動で彼らは口を揃えて「街に良い喫茶店と本屋は絶対に必要です」と語る。
 しかし、善意で成り立つ店など、もはや店ではない。
 それに対して「いいヤツ」は、常に店と自分との関係性で行動する。なくなっても仕方がないものと、自分にとってなくてはならないものを峻別し、必要以上に街の変化を嘆いたりしない。平等な善意ではなく、自分の関わる範囲というものをわきまえ、店のスタイルに合わせて使い方があらかじめインプットされている。
 知人の店には、暇な時間帯に顔を出し、雑談に花を咲かせ、仕事上必要な場合はチェーン店に足を運ぶのも辞さない。ゲストをもてなす際には親しい店を案内し、お金を落とす。催しや非常時には、客と見せとの一線を踏み越えることもあるが、普段は大人しく店のすすめを聞き入れて、「じゃあ、それで」なんて態度を貫く。
 彼らにとって「なくても生きていける」ものは切実に「なければ困る」ものであり、自分自身のために喫茶店や本屋にコミットするのだ。
 いずれも店を支えてくれる大事な客には違いないが、「いい人」はシンプルなストーリーを店に求め、「いいヤツ」は個別の物語を店から読み取る。その違いは、複雑なストーリーに普段から触れ、自分の理解できないものでも受け入れる度量があるかないかだ。
 街のテーマパーク化は、善意にせよ無意識にせよ、シンプルな物語を鵜呑みにするところから始まるのだ。
「いいヤツ」でありたいと常々思う。

喫茶店のディスクール

 近所で寿司屋を営んでいた親戚が数年前に他界した。親に連れられ数回訪れた店だったので、その後を気にして通るたび眺めていたら、いつの間にか改装されてコーヒースタンドになっていた。しばらくは店を覗く気にもなれなかったのだが、知人に連れられ覗いてみると、思いの外良い店だった。
(中略)
 何度か通ううち、常連客の大半がコーヒーチケットを利用していることに気がついた。朝早くにエスプレッソを一杯飲み干して支払いもせずに颯爽と出かけていく。
(中略)
 こういうスタイルを好む洒落た若者ばかりかと思えば、新聞を読みながら時間をかけてアメリカーノをのんびり飲んでいく老人や、昼間からビールやワインを嗜む老夫婦もいる。入り口に小さく掲示はされているものの、いまのところこの店の店内を撮影する客を見かけたことがないし、いつ訪れてみてもここに行列が出来ているのを目にしたこともない。メニューはイタリアンスタイルだが、ごくごくまっとうな喫茶店をこの店に感じた。
 ここに至るまでに、どのような紆余曲折があったかと想像する。「いい人」のい善意にもおもねらず、テーマパーク視する客をいなし、老若男女問わず、朝一番にここでエスプレッソを飲む必要性のある客たちを「いいヤツ」としてもてなし、気持ちの良い挨拶でもてなす。この店は、そういったことを、語ることもなく態度で示し続けたのだろう。
 喫茶店はそのようなことを考え、語る場でもある。今日も行きつけの店で常連たちが、最近できた新しい店の話や、どこぞの雰囲気やサービスが気持ちよかったなどと軽口を交わしている。客層はどうだったか、音楽は有線ではなくレコードをかけていた、何度目で声をかけられたか、誰とばったり出くわしたか。
 口調こそ世間話のそれだが、実は街のあり方を大きく変える政談でもある。仮想現実から常に醒め続けろ。何があるか、ではなく、どう使うか。その選択が街をテーマパークにもコミュニティにもするのだ。

kotoba 2024 Summer Issue No.56  P26〜31


この文章には、内容を分解していちいち解説するような難解さはない。

お店を営む者なら誰しも共感できる、そして、言葉にできずにいた内に秘めたるモヤモヤをうまく文章化してみせた名文だと思う。


堀部篤史氏は、京都出身で、左京区の書店『恵文社一乗寺店』の店長を経て現在は上京区にて書店『誠光社』を経営している。

観光都市でもある京都における、『書店・喫茶店』と『地元の人・ヨソの人』の関係性を書いたこの文章は、円安が進み、インバウンド需要が高まる日本各地で起こっていることを的確に言い当てていると思う。

観光都市の最前線である京都での定点観察ならではの現象が、凝縮されて活写されているが、これはいずれどこの地方都市でもタイムラグを伴って、もしくはすでに現在進行中のこととして起こりうる(起こっている)現象と考察、そして優秀なディスクール(言説)であると思う。


文中に書かれているように、かつて書店も喫茶店も生活必需だった。しかし、インターネットの登場によってその既存の役割のほとんどが失われ、そしてSNSの普及によって新たな形(テーマパーク)へと変貌せざるを得ない悲哀のようなものを描き出している。

しかしお店を営む者、悲哀やノスタルジックに浸って事態を憂いている場合ではない。

文中の言葉を借りるならば、

『善意で成り立つ店など、もはや店ではない』

のだ。

文中の言葉を借りるならば、シンプルなストーリーだけを紡いで、『いい人』を相手にテーマパーク化してしてしまうか、はたまた、解読困難なテキストを紡いで、『いいヤツ』を相手にテーマパーク化に抗うか。

書店や喫茶店を営む者は、その狭間で葛藤し、そしていつしか決断を強いられる。

僕が他の人や店と『連帯』をしようとする時、それは『同じような決断』をした人や店なのだと思う。

堀部篤史氏の文章を読んで、とりあえず、テレビの取材をお断りしたことは、間違いではなかったと思う。

とりあえず僕の仕事は、『日々の生活者』がちょっとした『日常の中の非日常』を感じるための(商品を含めた)『場』の提供なのだと思う。

『いいヤツ』の善意に決して甘えず、常に『場』、もしくは『商品』としての需要拡大に研鑽を務めること。

それしかないのだと思った。




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