永遠の瞬間
「きっと今のこの瞬間のこと、ずっと覚えているんだろうな」と、わかる時があります。
自ら忘れないようにしようと念じるのではなく、忘れないであろうことが「わかる」んです。
それは、まるで夢の中で「これは夢だ」と気づく時のように。
たとえば、保育園で幼馴染に背中の毛虫を取ってもらった時。
たとえば、写生大会で木々の葉を見つめながら、画用紙に色を重ねていた中学生の時。
たとえば、剣道の稽古からの帰り道、群青色の夕暮れの空に宵の明星と森の木々の影が浮かび上がってるのを眺めていた時。
たとえば、徹夜仕事明けにウンザリしながら職場を出て、見上げた早朝の空に見入った時……等々。
どれも、さして劇的でもなく、華々しくもなく、感動したわけでもない、なんてことないふとした日常のわずかな一瞬です。
それらが前後のつながりは失ったまま、今もその場の音や匂いや温度までも肌で感じるように鮮やかに記憶されています。
決して自分で記憶しておこう、と思ったわけではないのです。
ただ、「ああ、きっとこの瞬間のこと、ずっと忘れないんだろうな」と感じて、そして今も覚えているだけ。
人生にはいくつかの劇的で感動的な、あるいは感傷的な、様々な形で記録もされる出来事がありますが、そういう覚えておくべきことは、この年になるとするすると記憶から零れ落ちていくというのに。
なんの意味もなさそうな一瞬が、まるで別の時空と繋がっているかのように固定されてわたしの中に残っていきます。
そうやってわたしの脳内に保存されたこれらの平凡な一瞬は、いったい何を意味しているのでしょう。
もしかして、死ぬ間際に見るといわれる走馬灯の材料だったりして。
生を終える瞬間に振り返るものって、印象的で派手な、わかりやすい出来事だと思っていたけれど、意外にも地味で単純で純粋で、それでいて実は根源的な意味や価値が秘められたものなのかも……?
最期に総集編として見せられるものが、あれほど右往左往させられたスッタモンダでもスイモアマイモでもホレタハレタでもなく、「毛虫、木々や葉の陰影、群青色の空と星、ビルの谷間の朝焼け、……」なんかだとしたら。
精一杯生きて、やっとゴールに辿り着いたその時に観るなら、波乱万丈でドラマチックな映画ではなく、「ナショナルジオグラフィック」的な自然ドキュメンタリーのほうがいいのかも。
その映像が、自分の一生の中でいったい何を意味しているのかは、全然わからないけれど。
冬の張り詰めた空気の中で、息を呑むような美しい景色に出くわすと、この世で本当に価値あるものってこういうものなんじゃないかな、という気持ちになる時があります。
別に自然の中でなくても、どんな場所であっても、心に刻まれる景色は、人間社会のこまごました問題や、時間の感覚を忘れさせてくれるから。
ひとまず、記憶に残る何気ない永遠の一瞬を、意味もわからないままこれからも集めていくことになりそうです。