手紙
棚の整理をしていた時に、30年ほど前の手紙の束が出てきました。
20代の頃に受け取った何通かの手紙で、特別に箱に入れて保管されていました。差出人は、家族、大学時代の友人・先輩、会社の上司や先輩。
わたしの20代~30代といえば、5、6回引っ越しを繰り返していた頃。引っ越しに伴う数々の断捨離を乗り越えて、残っていたなんて驚きです。
しかも、その手紙の束だけ箱に入れて大切にしていたくせに、すっかりその存在を忘れていました。
長い歳月を経て改めて読み返してみると、受け取った当時にはわからなかったことが、じんじんと伝わってきます。
若い時の自分があまりにも未熟で受け取ることができなかったいろんな思いが、今になって読むとようやく届いて、ざっと目を通しただけで涙が溢れてきます。
たとえば今は亡き祖母からのハガキ。
「F(わたしの名前)の卒業論文、やっと読み終わりました。そしてすぐ忘れそうです」「桜がいっせいに咲き出し、可愛らしくてFのようです」なんて書いてある。泣けちゃう。
祖母からのハガキは、その手紙の箱の中の大半を占めていて、どれも「母と出かけた」「父が晩酌している」「庭の花が咲いた」といった実家の日常の出来事をただ綴っただけの便りがほとんどです。
でも、中にはこんなハガキもありました。
そしてふと消印を見ると、わたしが就職で上京したばかりの4月には、一週間のうちに3通も立て続けに届いていました。新しい環境へ飛び出した孫を想う気持ちが痛いほど伝わってきます。
自分のことしか考えていなかった当時の自分が、祖母にちゃんと返事を書いたかどうかだってあやしい。
家族以外の、友人や先輩方からの手紙もそうです。
どれもわたしの卒業後や、退社後、帰郷後に届いた、近況を知らせたり尋ねたりしてくれる手紙でした。
なぜ自分はそれらの手紙を特別に保管していたのでしょう。
確かにどの手紙もさらっとしたいい文章で、家族はともかく、友人や先輩たちである当時の差出人の年齢を考えると、今のわたしよりも皆年下でありながら素敵な文章を書いています。
けれども、大切に保管していたのは(完全に忘れていたとはいえ)その文章力というより、きっと自分に対する想いが伝わってきたからです。愛だの恋だのという色っぽい言葉は皆無。でも、そういう世界とは別の、離れた場所にいる相手を思い遣る気持ちを感じ取ったのでしょう。きっと、ただただわたしは嬉しかったんです。
長い歳月を超えて、もう一度その想いを確かに受け取ったわたしは、なんだかとても元気になりました。これだけの人たちに、自分の不在を空白と感じてペンを取ってもらえたのです。
当時はメールやSNSが普及していなかったことを考慮したとしても、手紙には特別な重みがあります。「どうしてる?」という気持ちを抱いて便せんやハガキに向かって字を書き、わざわざ切手を貼り、想いを乗せて投函してくれた。その時間を、自分のために使ってくれた。それが、何十年後の自分にも自信を与えてくれるのです。
若い頃のわたしは本当に何もわかっていない小娘だったけれど(今もですが)、これらの手紙を手元に残していたことには、「よくやった」と褒めてあげたいです。
ただ、おそらく自分も便りや返事を書いているはずで、この人たちにいったいわたしはどんな手紙を書いたのだろう。
メールと違って自分が書いた手紙の控えはありません。至らないこと満載の20代の自分が書いた、決して確認することができない手紙の存在に、もどかしく恥ずかしく恐れおののいて、そちらの手紙は破棄されていることを願う毎日です。