「可哀想」は「可愛い」か
つねづね、「かわいそう」と「かわいい」って字面が似てるのに全然違う意味だなあ、と思っていました。
他の言葉で、例えば「おいしそう」と「おいしい」、「楽しそう」と「楽しい」だったら、推定と実感の違いだけで意味は共通していますよね。
でも「かわいそう(可哀想)」と「かわいい(可愛い)」では意味も漢字も異なります。そもそも違う言葉なのでしょうか。
そこでちょっと調べてみたら、「かわいい」の語源はもともと「顔映ゆし(かおはゆし)→かはゆし」という言葉で、「相手がまぶしいほどで顔向けしにくい→こちらが気恥ずかしい(面映ゆい)」という意味で、そこから「正視できないが放っておけない」となり、「かはゆし=気の毒で見ていられない、不憫だ、哀れだ、痛々しい」という意味になったそう。それが「かわいそう(可哀想)」という言葉になったのですね。
一方、現在の「かわいい(可愛い)」という言葉には、「愛くるしい。守ってあげたい」という意味があり、要するにそこには「手を差し伸べたくなる感情、同情、哀れみ」が含まれて意味としては「可哀想」に通じるというのです。
おや? ということは、「かわいそう」と「かわいい」は語源が同じで「哀れ」という点でも同じ、ということになりますね。
わが家の広辞苑にも以下のように書いてあるので、両方の意味があるようです。
たしかに、感情の流れとして「可哀想」→「守ってあげたい、手を差し伸べたい、助けたい」→「可愛い、愛おしい」→「愛情」と変化することはあるのかも。
小さいもの、儚いもの、か弱いものを守ろうとするのは本能なのかもしれないし、小さな生き物に対してはもちろんですが、薄幸なタイプに惹きつけられる、という人もけっこう見かけます。不幸が放つ魅力ってあるのでしょうか。
ここで気になるのが、同じ「哀れみ」であっても、守ってあげたいと思われるのが「可愛い」で、どうやら手を差し伸べるには至らない感じなのが「可哀想」というところ。
「可愛い」には、「小ささ」とか「愛くるしさ」とか「弱さ」とか「守ってあげたいと思われること」が必要なのだなあ。
たしかに子猫がミャーと鳴けば手を差し伸べたくなるけれど、ゴリラが唸ったら逃げ出したくなりそうです。だけど、ゴリラだって助けが必要な時はあるだろうし、サイズや見た目で手出し無用と判断されるのはいかがなものか。ゴリラだって辛いんだよ!
と、無性にゴリラに肩入れしたくなる、もはや小さくもか弱くもないわたし。
手元にある1986年発行(古い……)の旺文社古語辞典の「かはゆし」の欄にはこうあります。
たとえ①や②だけであっても、誰だって優しくされたいです。
そんなことを力説してしまう、もう③にはなれないわたしです。