"テクノロジーは神ではない"というつれづれ
テクノロジーは神ではない。
そんな、テクノロジーといモノに対するちょっとしたつれづれ。
あくまでも、個人の考え。
テクノロジーは神ではない。英知のシンボルでも、何かを実現させたという慢心を得るものでも、それを誇示するものでもない。
人はとかくその”達成”に対して、己が優位に立っているという幻想を抱くように見受けられる。僕は今、IT関係の仕事に従事しているが、全く異なる田畑から出てきた身から見ると、そのように映ることがある。
また、いくつかの歴史がもつ、かつての”英知”によってもたらされた思想的な多民族への差別意識、あるいは侵略行為がそれを示しているだろう。それら意識や行動における深層的な心理の中に、自身の優位性という慢心があったように考えられる。
しかしながら、過去の歴史においてそれらがもたらしたものは結局のところ、果たして、私たちの生活が長期的に見て豊かになったと言えるのか?
多くのことが”可能”となった。多くのものを分配できるようになった。
ただ、モノを多く作ったところで余るだけ、むしろ作るための材料はなくなるし、空気は汚くなるし、やたらと気温が温かくなる。
今になって、やたらと過去の批判や”軌道修正”が謳われる。
”こうすれば~ができるようになる”
電気を使えば、自動で物が動くようになる。
動いているものを使って拡散ができる。
拡散したもので暮らしが楽になる。
そのうち、できることも増える。
”もっと、もっと”と
最近選択的退化という考え方を持ち始めた。
これはペシミスティックな考えかもしれないけれど、根本的な追及は結局のところ過度な欲求に従っていると思うからだ。
理性的というよりも、欲求に付き従っているという時点でむしろ野蛮。極端な言い方になってしまうが、麻薬に手を染めて中毒になっていることと何が違うのだろう。
賢い選択とは何ぞや
狩猟採集民などの自然の中で生活していた彼らの思想はそういった意味で見ればむしろ成熟した思想を持っていると思う。
自身は大したことは行えないという割り切った考えを持っていて、過度に得るということもしない。他の生態系への畏敬の念や、共生的な考え方を知ると、とりわけ強くそのような印象を受ける。
そのうえそうした思想や共生的な考えが、今になって必要な考えとなっている気もする。そう考えてみれば、現代が以前の生活をむしろ追従する形のようになっている、そんな印象も受けるのだ。
出来てどうなのか、発展させるべきは何なんだろう。
浮世離れした、そんなつれづれ。