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『体育教師を志す若者たちへ』 序章

一昨年買った苗、そこから出た枝を昨年挿し木して増やしました

   スポーツ庁のHPを見ると、部活動のことは「地域スポーツ課」で扱っています。学習指導要領でも部活動は教育課程に位置づけられていないし、本来学校教育範疇ではないと考えているんですね。昨年6月にスポーツ庁へ提出された「部活動の地域移行に関する答申」の中には、次の文言があります。
「部活動は教育課程外の活動であり、その設置・運営は法令上の義務ではなく、学校の判断により実施しない場合もあり得ること」
「 地域移行が完了するまでの間に運動部活動を実施する場合には、学校の業務として行われるが、必ずしも教師が担う必要のない業務であり、教師に限らず部活動指導員や外部指導者など適切な指導者の下で行われるものであること」
(昨年6月提言P44)

 さて、体育教師が仕事として部活動指導をしない時代が確実に来つつあります。それでは『体育教師を志す若者たちへ』、今回はその「序章」をお読み下さい。


序章
 問題提起

◇体育教師が部活動指導をしない時代が来つつある
 たぶん本書を手にとってみた若い方はスポーツが好きで、部活動で汗を流した経験があり、その好きなスポーツを子どもたちに教えることが職業にできたらと考えている人なのではないだろうか。そして中学校や高校の教師になれば部活動の指導ができる。自分がお世話になった中学、高校時代の恩師のような道を自分も歩んでみたいと考えているのかもしれない。今から40年以上も前になるが、私も大学進学に際してはそう考えて体育系の大学へ進学した。そして体育教師になってからはずっと部活動にも関わってきた。
 しかし、現在部活動は大きく変わりつつある。2021年12月に公表されたスポーツ庁による「新たなスポーツ環境の構築に向けて~子どもたちの未来を見据えた『部活動改革』~」の冒頭には次のように書かれている。
 「中学生になったら部活動に入って顧問である教員の指導の下でスポーツに 汗を流すという、これまで当たり前であった光景が成り立たなくなる未来が着実に近づいてきています」(スポーツ庁HPより)
 その理由は少子化によって部の存続自体が危ぶまれる事態になってきていること、加えて教員の多忙化によって子どもたちのスポーツ活動を学校から地域へ移行させていく動きが始まっているからだ。
 また、2019年度から始まった「部活動指導員」の制度により、教員免許を持たない「部活動指導員」が部活動指導から大会引率までもできるようになってきた。近い将来、体育教師でありながら学校教育としての部活動指導には関われない、そして本務である体育の授業にこそ専念すべき時代が到来しようとしている。

◇体育教師の仕事とは?
 本書で体育教師を志す若者たちに一番伝えたいことは、「体育教師は授業で勝負し、そのことで給料をいただいている。その仕事は部活動指導に熱を注ぎながら片手間でやっていられるような仕事ではない」ということだ。本書は、裏を返せば部活動指導に熱心になる一方で、日々の体育の授業では十分な準備や研究を怠り、持ち前の力量だけで上手に生徒を動かしてそれでよしとしてきた体育教師たちに対する警鐘でもある。体育のみならず、教師というものは日々研修が必要な研究者的側面をもっている。授業準備・授業研究に多くの時間を必要とすることから(その気になればの話だが)、その時間や身分は十分に保障されなければならない。一方、苦労が多いだけに奥が深く魅力的な仕事であることは確かだ。その苦労は子どもたちの笑顔として返ってくる。
 体育授業に専念することを最優先にしたいとは考えていない人たち、つまり自分が競技を続けることを優先したいとか、あるいは部活動や地域のスポーツクラブの指導を優先したいと考えている人たちはそれができる道は別にある。スポーツ産業が急速に発展しつつある現在、スポーツ関連施設の民間委託も進んでいる。こうした企業に就職して一定時間勤務し、休日などの空いた時間に子どもたちのスポーツ活動に携わることができる。あるいはトレーナーの資格を取ってスポーツジムなどへ就職していく道もあるだろう。その方が自分が求める専門性を生かすことができる。学校の体育教師以外の道へ進むべきではないだろうか。

◇研究しなくても済んでいる体育授業の世界
「体育って研究することあるの?」。一般の方からこんなことを言われるくらい、体育は研究や勉強とは別の次元のことであるかのように思われている節がある。なぜだろうか? その理由を考えてみると、それは多くの人たちが受けてきた体育の授業そのものに原因があるように思えてならない。数学や理科、社会などいわゆる「受験教科」といわれる教科は、小学校、中学、高校、そして大学へと学年が進むにつれて学習内容が難しくなっていく。ところが体育の授業はどうだろう。学年が進むにつれて体は成長し、体力がついていくからそれに合った運動内容にはなるものの、学年が進むにつれて段階的に難しいことを学んでいっていると言えるだろうか。
 例えば、高校の水泳授業は中学校の水泳授業より難しくなり、深い学びとなっているのだろうか。「水泳嫌い」でプールに入りたがらない生徒もいることから、高校の水泳の単位認定は、「とにかく水に入って歩いてでもいいから〇〇m行けばよし」としている学校さえあると聞く。陸上競技の授業では、「走る」ということについての学びをどう深めているのだろうか。短距離走、長距離走などでは一定程度の練習時間を与え、その後記録を測って終わりとしていないだろうか。そしてそこでの取り組みの意欲と技能(記録)によって成績がつけられていく。球技ではボール操作技能に関わる基礎的な練習を行い、あとは試合を進めるだけといった授業もある。
 このことは評価のあり方の問題へと繫がっている。授業の評価、成績はその授業で学んだことで獲得された能力によって評価され、成績がつけられるべきだろう。ところが、その生徒が速く・長く泳げること、あるいは走れること、遠くへ跳べることなどは、授業で学んだことによるものではないことが多い。スイミングスクールへ通っている生徒は上手に泳げるし、走ることや跳ぶことは、学習の成果というよりも発育発達の状況や持って生まれた素質によるものが大きい。球技であれば、部活動などでその経験のある者は上手にできる。
 それで成績がつけられているとすれば、それは授業で身につけたものではないものを評価していることになる。つまり、体育で教える内容についての研究も必要ないということになる。「体育って研究することあるの?」と言われても仕方ないだろう。
 この問題に少しでも共感できる方は、ぜひ本書を最後まで読み進めて体育教師を目指していただきたい。体育とは何を学ぶ教科のか、そしてそのために教師は何を研究しなければならないのかということが見えてくるように思う。
 こうした問題を抱える体育授業でも、教師が教えていることはあると主張する人もいるだろう。それは授業に取り組む姿勢、つまり授業態度の育成だ。いわゆる「人を育てる」「心を育てる」という教育理念だ。このことだけしっかり指導しておけば、中学生や高校生になると自分たちで運動が進められるようになる。そこで体育教師はその指導エネルギーを今度は部活動指導へと方向修正し、授業は適当に済ませてよしとすることさえ可能になっていく。
 私が勤務してきた長野県内の中学校では、小規模校を除き、同学年の2学級を2人の体育教師で同時に受け持つという授業体制をとっている学校が多い。表向きは、スポーツ種目の個人選択制がやりやすいことや、種目によっては男女別の授業ができるという理由からだが、それだけではない。授業態度の躾だけしっかりやっておくことで、後は教師が一人いれば授業をなんとかこなせる体制なのだ。こうして教師2人のうち1人は中学校体育連盟(部活動)の大会準備・役員会へと安心して出張できることになる。

◇多忙化が教師の専門性を摘む
 そうは言っても現代の教師は多忙を極めている。授業以外の大事な本務として、学級担任や学年内の係分担、生徒指導に関わる問題への対応がある。それ以外にも、教職員としてしなければならない様々な校務分掌がある。そのため、勤務時間内に授業の準備や研究をするなどということは忙しくてとてもできる状態ではない。最近の労働組合青年部の調査では、勤務時間内で授業準備をする時間が1日の中で30分以下という中学校教師は7割近くにもなるという。
 そのせいか中学校現場では自分から進んで研究を重ね、実践レポートを書いたり授業を公開しようなどという教師はかなり少ない。教師が参加している研究会や公開研究授業などは多数あるが、多くは本人がやりたくてやっているというより管理職から依頼され、勧められ、あるいは順番に回ってくるので仕方なくやっているものがほとんどのようだ。多くの「真面目な」教師はこうした依頼があれば断れない。結局夜遅くまで職員室に残って「やらされる」研究に取り組んでいる。その分自分がやりたい授業準備や研究はおろそかになっていく。

◇体育教師は自分の首を絞めている
多忙化の中で疲弊し、あるいは部活動指導に時間をとられ、体育の授業はその場しのぎでこなさざるを得ないのが実態だ。しかし、実はそのことが自らの首を絞めつつあるということに気づく必要がある。近年学校教育は地域や外部との連携が推奨され、教師が苦手とするダンス、武道などの授業では地域の外部指導者に指導を依頼することも可能になってきた。水泳授業ではスイミングスクールに指導を依頼する学校も出てきている。それは教師の負担を軽減することにもなるとして推奨されている。
 しかし、こうした「外部委託」の授業では、教師は指導者・教育者という役割を捨て、マネージャー役になってしまっている。教師の専門性や研究の必要性もなくなってくる。余ったエネルギーを部活指導に向けていく教師が出てきても不思議ではない。しかし、その部活指導の道も、「地域移行」でしだいに閉ざされつつある。ここにおいても体育教師の専門性とは何なのかということが改めて問われ始めている。「体育教師は体育の授業でこそ生きる道を見いだして欲しい」というのが本書の願いだ。
 学校で教える水泳授業はスイミングスクールで教える水泳と同じでよいのだろうか。武道やダンスは武道教室、あるいはダンス教室で教える内容と同じなのだろうか。同じだとすれば、教師が教えるよりもその道の専門家に指導を委ねた方が子どものためになる。体育教師の専門性は必要なくなってくる。そのことはまた、スイミングスクールへ通っている生徒は水泳授業を受ける必要性はないということにもなってくる。
 1990年代、将来の日本の教育の方向としてこのことに関連した問題が国の教育課程審議会等で真面目に議論されていた。実際に学校外でスポーツクラブや芸術教室などの社会教育が充実している欧米諸国では、学校で体育の授業が行われていなかったり、あるいは時間数がかなり少なくなったりしている。この審議会等でも体育や芸術分野のことは学校教育として行う必要があるのかという議論が出てきたという。
 その議論を通して生まれた当時の学習指導要領では、小学校高学年から中学校において体育の受業時数が削減された。これまでの週3時間の体育が2.6時間になった。かつて音楽や美術は週2時間あったのに、現在では週1時間しかない。その分こうした教科の教員数は減らされてきている。その後、子どもたちの体力・運動能力の低下問題もあって体育の週3時間授業は復活したが、再びその流れに進む可能性はある。この議論が進めば、体育教師や芸術科の教師は学校にいなくなるだろう。
 近い将来、学校教育としての部活動は社会体育へ移行することで消滅しようとしているし、子どもたちが地域で様々なスポーツに親しむ機会がより一層保障されていくことによって、次の段階では学校の体育授業さえ必要のない時代が来るのかもしれない。体育教師の生きる道は狭められつつある。

◇体育は何を教える教科なのか
 先に私は、「私たち体育教師は授業で勝負し、そのことで給料をいただいている。その仕事は部活動指導に熱を注ぎながら片手間でやっていられるような仕事ではない」と述べた。その体育教師の専門性に属する大きな研究内容として、「教科内容研究」という分野がある。体育は何を教える教科なのかという問題だ。
 その具体的な内容事例は第2章以降に述べるが、私は、学校の体育の授業では、「水泳は、スイミングスクールでも学べない内容」、「武道(剣道)では地域の武道(剣道)教室でも学べない内容」、「バレーボールでは、部活動のバレー部でも学べない内容」を学ぶのであり、その固有の体育授業の学習内容をこそ体育教師はその専門的な研究によって明らかにしていかなければならないと考える。
 その内容は部活動や地域スポーツへ参加している生徒であっても新しく学ぶ内容であり、子どもの発達に関わって、そして将来よりよく人生を生きていくために必要な文化的・社会的な教養と言える。

◇学習指導要領からの自由
 数学や英語、理科といったいわゆる受験教科は、学習すべき内容が文科省検定済みの教科書に示されており、それを基準にして高校進学などの受験問題が作成されることから、学習内容を学校や教師側が考えて決めていくという発想はとりにくい面がある。学習内容や教科書は国(文科省)が決め、その指導法を各学校や教師が研究するということが一般論としては多く受け入れられてしまっている。
 しかし、「国民の教育権」という考え方からするとそれは正しいとは言えない。戦前の国定教科書のように、国や時の政府が教育内容を決めていたことによって、国民を間違った戦争への道へ導いてしまった。その反省から、国や行政は教育の諸条件整備を行うのであり、教える内容は国民(地域、学校、保護者など)が決めていくべきだという考え方をするようになった。これが「国民の教育権」という考え方なのだ。
 このことは、現在の学習指導要領の「第1章 総則」の最初にも明記されている。「各学校においては,教育基本法及び学校教育法その他の法令並びにこの章以下に示すところに従い,生徒の人間として調和のとれた育成を目指し,地域や学校の実態及び生徒の心身の発達の段階や特性等を十分考慮して,適切な教育課程を編成するものとし・・・」(傍点筆者)とある。
 ここに、「各学校においては・・適切な教育課程を編成する」とあるように、教育課程の編成が各学校の責任において進められるということを謳っている。
 その意味をもう少し具体的に私が経験してきた事例で説明しよう。この学習指導要領はほぼ10年サイクルで変えられてきているが、学習指導要領通りにやってうまくいかないことはこれまでもよく起きてきていた。しかし、国はその責任をとろうとはしない。
 かつて中学校の体育で中学2年生からスポーツ種目の個人選択制が学習指導要領に示された。しかし、2年生からのスポーツ種目の個人選択制はうまくいかず、現場から多数の問題が寄せられていた。そこで現在の学習指導要領では選択制が3年生からとなった。この時私が参加していたある研修会で教育委員会の指導主事から、2年生からの選択制がうまくいかなかったのは現場のせいだというような説明があった。私は、現場から多数問題が出ていたのに、それを現場のせいにするのはおかしい、文科省の責任はどうなのかと発言したところ、その指導主事はすぐに文科省へ電話で問い合わせてくれた。
 そこで返ってきた文科省からの説明は、(その指導主事によると)上手くいかなかったのは文科省の責任ではないとのことだった。なぜなら、学習指導要領に、「各学校は・・・教育課程を編成し・・」とあるからだという。うまくいかない教育課程を編成したのは学校なのだから、文科省に責任はなく、学校にあるということなのだ。わたしはこれを聞いてあきれてしまった。学習指導要領通りにやってうまくいかなくても文科省は責任をとらないのだ。
 この事例から、先の「国民の教育権」ということを考えていかなければならない。学習指導要領は参考にしつつも、体育の授業で、どんなスポーツ種目(教材)で何を教えるのか、そしてそれを教育課程として各学年でどう編成していくのかは、私たちが各学校の責任として決めていくことになる。体育教師はその責任を自覚して研究していかなければならない。
 屋外にある学校のプールはスイミングスクールの室内プールよりも冷たいことが多い。ある年、スイミングスクールに通っていた生徒が水泳の時間にほとんどプールに入らず見学していた。冷たいからいやだと一言漏らしたこともあった。本心は聞き取れなかったが、「自分はスイミングスクールで泳いでいるのだから水泳の授業は必要ない」と考えていたことが想像される。
 部活動でしごかれている生徒の中には、体育の授業で手を抜く生徒もいる。「自分はバレー部で活動しているから体育でバレーをやる必要ない」と言ってきたら教師はどう答えるだろうか。スイミングスクールや部活動でも学べない内容を教師が提示しない限り、彼らの「手抜き体育」を更正させる方法はないように思える。スイミングスクールに通っている子どもに水泳の授業で何を学ばせるのか、バレー部員にバレーの授業で何を学ばせるのかといったことを本書では考えてみたい。

◇「スポーツ推薦」への疑問
 部活動で活躍し、そしてそこで得られた技能が体育の授業で身につけられたものとしてすり替えられて評価され、中学から高校へ、そして高校から大学へと進学していく生徒たちがいる。いわゆるスポーツ推薦である。スポーツで好成績を収めることがなぜ進学に有利になるのだろうか。
 長く中学校現場にいて高校進学に向けての進路指導もしてきた経験から、これだけは何とかならないものかと思い続けてきたことがある。多くの同僚教師たちも毎年同じことを感じてきた。それは私立高校へのスポーツ推薦だ。スポーツで活躍し、人間的にも立派で学業にも力を入れているスポーツマンは世の中に沢山いる。そういう生徒なら大いに推薦したい。しかし一方でスポーツはできるが日々の生活はだらしなく、問題行動の多い人たちも少なからずいる。
 特に中学生の頃はまだ自我が確立しておらず、厳しい部活動の中では頑張りを発揮するものの、その反動からか日常生活になると行動ががらりと変わる生徒が少なくない。部活動中は顧問の前で挨拶の声も大きく元気で、他者への気遣いもよく、マナーのよい生徒でいるが、通常の授業になると居眠りをし、あるいは騒ぐ。宿題や提出物は出さず、掃除はさぼる。学級の中ではボス的存在であったりして、迷惑行為を顧みない。
 これは小学校の高学年でもしばしば見られるという。地域のスポーツ少年団の活動に参加している運動能力の高い児童が、学級内で好き勝手なことをしてかき回す。球技の授業では、一人でボールを占有してしまうために授業にならない。ルールを守るとか、マナーを大切にするとか、スポーツ少年団の指導者の方たちからきちんと教えていただいているはずなのに、現実はなかなか難しい。
 中学校の体育では、特に1,2年生の段階でこうした傾向が見られる。厳しい部活動に参加している生徒にありがちで、体育の授業では教師の言うことをきかず、好き勝手に振る舞い、あるいは疲れ果てて何もしようとしなかったりする。私はどうしようもなく、「君、そんなんだったら部活やめた方がいいよ」と声をかけたことさえある。
 さて、こうした生徒たちも高校進学のための受験期を迎える。スポーツで対外的に活躍している生徒は高校の部活顧問からも目をかけられている。そこで「スポーツ推薦」が利用されることになる。生徒自身が自分の実力で高校合格を勝ち取ってくれればいいのだが、とかく他力本願になりがちだ。この「スポーツ推薦」は、受験期に中学校の教師集団を毎年のように悩ませている。学校生活に問題を抱える生徒であっても、高校側から中学校へ「学校長推薦」として入学願書を出すように依頼してくるからだ。
 学校長推薦と言っても中学の学校長が一人で決めることはできない。日々その生徒と接している教職員の総意として、学校長の責任で、学力も人物も立派だということを確認して推薦しなければならない。安易に学校長推薦を出せば、「えっ、あの人が学校長推薦なの?」と、そんな不信感が後で生徒たちから出てくることも危惧される。また、その姿を日々見ている後輩たちには、「あんな適当なことをやっていても部活だけ頑張っていれば高校へ行けるんだ」と思わせてしまう。
 結局、よほどの問題行動が明らかになっていない限り、学校長推薦を中学校側が拒否することはできない。拒否すれば今度は保護者からクレームが来てしまう。合格の内定は1月末頃には下されることから、卒業式までの残り少ない期間で「学校長推薦」にふさわしい行動がとれるよう、担任や学年職員で励まし、時には厳しく指導せざるを得ないことになってしまっている。こうしたことまで「進路指導」としてしなければならないのだろうか。わざわざ「学校長推薦」など依頼せず、高校側の判断で自由にとってもらえばこちらの苦労もないのだが。
 現代は「スポーツをさせておけば子どもは立派に育つ」と安易に考えてよい時代ではなくなってきている。スポーツ競技で活躍していた人物が不祥事を起こすことも度々報道されてきた。こうした事例を考えるにつけても、スポーツを通して何をこそ教えるべきなのか、そして学校教育の体育の授業では何を学ばせなければならないのかということを私たち体育関係者は真剣に考えていくことが求められている。・・
 
  ・・・・次回、第1章へと続く

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