客観的なひと
「客観的にモノをみてるよね」
と、言われることがちょくちょくある。
そのたびにぼくは、
「客観的にモノをみようとはしてるから嬉しい」
と答える。これは、謙遜でもなんでもなく、ほんとに正直な気持ちだ。そうしようとは思っているけど、そうできているかどうかについては自信ない。
「客観的にモノをみてる」と言ってもらえることはすごくうれしい。ほんとに。顔をポッと赤くしてにやついてしまうぐらいには。
ただ、ぼくはこの言葉をかけられると、ある思考のループに陥ってしまう。『客観的-非客観的地獄』と名づけることにしよう。
それはつまりはこういうループだ。
まず、「自分は客観的にモノをみることができている」と考えようとする。
そうすると、「自分で自分のこと客観的なやつだと思っちゃってるやつって、なんなら1番客観的じゃなくね?」という考えが立ち現れる。
それに対して、「<自分で自分のこと客観的なやつだと思っちゃってるやつって、なんなら1番客観的じゃなくね?>って考えられるのって、客観的な視点を持ってるからこそじゃない?」という、さらにウワテ(?)の思考も現れる。
それに対して、「{<自分で自分のこと客観的なやつだと思っちゃってるやつって、なんなら1番客観的じゃなくね?>って考えられるのって、客観的な視点を持ってるからこそじゃない?}っていう考えを持った時点で客観的じゃないのでは?」と思う。
以下、これのループである。
自分のことを客観的だと思うことは客観的じゃない。でも、そんな風に「自分を客観的じゃない」と自己反省できてるってことは客観的な証拠だ。いや、それは客観的じゃない。・・・・・・・・・・・・
この孤独で非生産的な議論に今のところ答えは出ていない。ぼくは客観的なのか、否か。ぼくは本当にわからない。
ひとつたしかなのは、ぼくは、
こんな風に考えている時間のことや、こんな風に考えている自分自身のことが、それほど嫌いではない、むしろ好きなのだ。
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