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何者かになりたくて
私には、理由も本当のところは分からないけれどもやり続けていること、やらずにはいられないことが一つだけある。
それは演劇だ。
中学生の頃から俳優になりたくて、大学に行ったら演劇部に入るんだと決めていた。芸能オーディションを何度か受けたこともある。なぜ大学からだったかというと、ドが付くほどの田舎出身だったため演劇文化がそもそも皆無に等しい地域であり、高校にも演劇部がなかったからだ。社会人になって演劇関係者の話を聞くと、中学校からやっていた人もおり衝撃的だった。
ではそれまで何をしていたかというと、スポーツばかりの日々を送っていたのである。
小学2年生から中学3年生まで野球を(やりたくも無かったのに)やり、高校の3年間は陸上競技部で主に槍投げをやっていた。勉強も熱心な方ではなく、読書もしないので家に帰ってきたらゲームをし、ああでもないこうでもないと書いては消してを繰り返しながら好きな人とメールをすることで1日を終えていた。
進路も芸能界に入って役者をすることしか考えていなかったため、明確に入りたい大学もなければ学部も学科もどこを選んでいいのかわからなかった。なので高校3年生の頃は、関東のそこそこの偏差値の大学を適当に目指して上京する理由にしようとしていた。
そして10月後半、交通事故にあうこととなる。
その詳細はいつか別記事にて綴ることとする。
事故にあったことで身体に障害を持つこととなった。いままで毎日のように飛んだり跳ねたり走ったりしていたことができなくなった。アイデンティティが失われ、役者人生も諦めねばならないのかと涙涙の日々となった。
それから1年と半年が経過し、自分の足だけで立ち、歩けるようになり、大学へ入学した(センター試験の結果を使い)。親は一人暮らしをさせてくれはしたものの、手術がまだ残っていたため地元の私立大への入学となってしまった。
ここからが人生の新たなスタートとなる。
飛ぶことも跳ねることも走ることもできなければスポーツも皆のようにはもうできない。野球も陸上競技部もできなければそれ以外のことなど自分にはない。障害を持ったそんな状態の自分からの大学生活。
何者かになりたくて、
やれそうなことには手を出した。
カクテル作り、学生BARでのバイト、バンド(ベース担当)、吹奏楽(コントラバス)、一眼カメラ、凝った料理作り(ワイン煮込みとか)、お菓子作り、小説の執筆(完成したものは無い)、読書、友人との映画制作、映画鑑賞(ほぼ見ない私が1年で100本は観た)、クラシックの聴き漁り
そして演劇。
やれないと決めつけ可能性を殺すのは自分自身だと言い聞かせ、生傷を作りやすい足でありながらも演劇世界に飛び込んだ。
今綴ってみるとなんとも幅は狭いものの、それまでやってこなかったことをやってみた当時は、それまで知らなかった新しい自分に出会うことばかりであった。
学生BARでのバイトとカクテル作りのおかげでお酒は好きになった。BARのイベントでメイド服を着たことをきっかけに女装を楽しめるのを知ったのもこのときだった。いまもNANAに憧れて夏祭りの時とかに、仲間と仮装をして集まりたいと思ったりしている。カクテルはジン、ウォッカ系が特に好きで、バンド仲間が家にきてはよく一緒に飲んでいた記憶がある。
バンドはこれまたNANAのシンに憧れてベースを選んだ。大学祭の実行委員に所属し、その学祭実行委員内でライブがあるから出ないかと先輩たちに声をかけられたのがバンドのきっかけである。1年の仲間で寄せ集まって組んだ4人バンドを組むこととなった。年に3回程ライブがあり、コピーバンドでキャッチーな曲をやっていた。なんだかんだ卒業まで続いたが、腕前は粗末なもので思い返すと恥ずかしいほどである。最近ベースの弦を店で張り替えてもらい、フレットも磨いてもらった。その日のうちに約9年振りか、小さな恋のうた、修羅を弾いてみたのだが、あの頃にはない楽しさがあったのが嬉しかった。「やりたい」気持ちが自分の中にまたひとつ増えたのも嬉しい。
コントラバスは吹奏楽部に入って半年ほどだろうか、そこそこ熱心に取り組んだものである。演劇部や学祭実行委員、手術のことなどがあり、両立が難しかったため年内には退部してしまったのだが、夏の校内コンサートに乗れたのはいい思い出である。今もやれることならコントラバスは趣味でやりたいくらい好きな楽器である。
と、ひとつひとつエピソードがあるが、1番想い入れがあるのが演劇である。
所属大学に演劇部がなかったため、他大学の演劇部に卒業まで所属していた。そこの演劇部で役者をしたり、外部の企画に参加したり、県内の大学から集まって作った劇団で演劇をしたりもしていた。
しかし、私は大学生時代の演劇人生に対してあまりいい思い出がないのが正直なところなのである。
演出の顔色を伺わねばならない機会が多く、出番が少なければせっかく稽古に行っても1度も出番がないこともある。同級生がメインの役をやっているのを見ているのも悔しくて仕方がなかったこともある。うまくやろうとか目立とうとかいう意識もあり、また雰囲気としても蔓延っており、今思えば「評価」の世界で息苦しかった。個性的であろうとすることにみんな必死なようにも私には見えていた。
また基礎基本も疎かと感じ、ストレッチ、発声の後すぐに台本稽古に入る文化がどうしても気に入らなかった。
だから言う割にはあまり演劇部に関わっていなかったのが事実である。それでも四六時中考えていたのは演劇のことだった。
大学4年間を経た後、私は都内の心理系大学院への進学を選んだ(ここにも色々なエピソードがある)。それを機に大学でやっていたことを辞めることとなる。もちろん演劇も。
大学院での厳しい2年間を修了し、病院へ就職して上司のパワハラに耐え、朝晩の蕁麻疹にも耐え、2つの資格試験にもパスし、1年を経た頃、私の中に密度の濃いひとつの想いが形成されていた。それは
「演劇がしたい」
という想いであった。
あまりいい思い出のない演劇経験を経てきたにも関わらず、なぜこんなにも強く演劇がしたいのか自分でもわからなかった。しかし我慢することが限界になりその想いに従い、次の就職先も決まらぬうちに病院から逃げるようにして3月に退職した。
こころを癒したくもあったが、ひとりで生きるにはそうもいっていられず仕事を探した。幸いすぐに4月から働ける仕事が見つかり、そのために引越しをし、なんとか生きていける基盤を確保した。そして、
喉が渇き水を求めるかのごとく、
演劇の企画を探し、飛び込んだ。
生きるための演劇人生がはじまった。
それがインプロとの出会いともなった。
インプロ公演企画を終えた後は自ら連続講座を見つけて受け続けて2年はほぼ毎週インプロをやっていた。世がコロナになっても脚本芝居や野外公演を先輩と続けていた。2022年もコロナは猛威を奮っていたが、もらったオファーを受けに受け、1人芝居を含めた5本の脚本芝居をやり切った(主演2本)。週5日働きながらやり切ったということがまた私に達成感をもたらしてくれた。臨床心理学的知識や脚本読解の知識、それまでの人生や人間の持ち得る可能性をフルで活用して臨んだため、自分の中のものがかなり収斂されたところもあったと感じる。
2023年はさすがに疲れてしまい、単発ワークショップへの参加と11月の脚本芝居の出演のみにとどまってしまったが、観劇経験がそこそこ取れたので学びにはなった年である。年の後半も後半になったが、ワークショップも自分で初めて開くに至り、得られるものが多く、新鮮な経験をさせてもらうことが出来た。
演劇仲間が、同級生で演劇を今尚続けている人はほとんどいないと話していたことがある。私
以上に熱心だった同期もほとんどが辞めている。そんな中で演劇を続けている自分というのがなんか面白い。本当に、やらずにはいられない理由がわからない。ただ、現時点で1番しっくりくる答えは、
私が私に生まれたから
というものだ。
退職を決断していなければ、演劇の企画に飛び込んでいなければ、私はどうなっていたのだろう。間違いなく今のような私はいないし、今出会っている人達とも今のような関係性は間違いなく築けていなかっただろう。劇団の仲間たちとも出会えていなかったしインプロWSもできていなかった。
生きるために必要だった演劇が、私を今日まで導き、他者との繋がりを生んでくれた。
「何者かになりたい」
その気持ちは全くないと言えば嘘になるが、私はもう、既に私という、他にない存在であるという認識を強めてきている。
「できること」はなにかと探した事故後
から
「やりたいこと」がある今
私はどんどん私らしくなっていく。
これからも私が私の気持ちを大切にしてあげよう。
そうして生きていこう。
感情を揺さぶるものを、体験を、怖がらなくていい。
誰のためにもならない「誰かのため」の振る舞いなんてやめていい。
自己防衛の優しさもときには捨てて。