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恋愛という強烈な殺意の源泉
在り来りな言葉でありながら個々人常に新鮮な内実を伴う言葉。
文字の面の割に人を殺してしまうほどの強い情動をもたらしたりするから恐ろしい。人は知らない訳では無いのにいつもそのことを忘れて甘美な側面に目がいっている。
まるで黒黒しい部分だけ濾過してしまうかのような機能が人間に備わっているのかと思ってしまう。
あるいは恋愛という生き物が人間に寄生し、排除されないために人を殺してしまうほどの情動を認知させないでいるかのようだ。
御託はいい。
今吐き出したい気持ちは、心底好きな相手と恋仲になれないことがどれほど辛く悲しく苦しいかということだ。
別にポエムを書きたいわけじゃない。
不良も優等生も先生も恋に落ちれば皆同じ。
そう歌うのは宇多田ヒカルだ。
子供も大人もご老人も関係ない。
今まさにそのことを痛感している。
私は切なる恋の種が育ったことがない。時に引き裂かれ、そして時に癒されてきた。
今回もそうなのだろうか。いやそうなのだろうと思う。だが、癒されていくことが、好きな気持ち、情熱が冷めていくことが悲しい。受け入れていってしまっている自分がいるのが悲しい。嫉妬の炎も弱まってきている。ただそこにあるグロテスクな事実だけを残して。
幸せを願うことが大人であるならば、私は子どものままだ。心から願うことなどできやしない。
どうか不幸に見舞われ、自身の選択が間違いだったと後悔すればいいと思う。
誰にも公言できない、すべきでも無い、心的事実と湧いてでた言葉たち。
また同じように好きになれる人に出会えたら、こんな古傷もあったなと、懐かしむことができるのだろうか。それともタイムカプセルのように、当時の鮮やかさを残したまま私のうちに沈潜するのだろうか。