「常夏姫と冬蛇の王」第15話 伝説のはじまり
城門で会ったベルーガによると、シムルグは一人、駆蛇ノ原へと向かったようだった。
リーザは駆ける足を一度も止めることなく、駆蛇ノ原を目指す。すると、駆蛇ノ原へ続く立派な門扉の前に立つ、シムルグの後ろ姿を見つけた。
シムルグが視界に入ったのと同時に、リーザは大きく叫んでいた。
「シムルグ!」
シムルグはすぐに振り返ってくれる。それが嬉しくて、リーザは駆ける足をさらに速めるが、今にも転んでしまいそうな危なっかしい足取りになってしまう。
「おいおい……!」
シムルグが思いがけずといったように危ういリーザへ手を伸ばそうとするが、はっと息を吞んでその手を引っ込めようとする。おそらく、己の冷気の毒を気にしているのだろう。シムルグの革手袋には、微かに霜がついていた。
しかし、そのシムルグの手は駆け寄ってきたリーザの手によって捕まえられる。
「! ……触、るな」
シムルグはやはり反射的に振り払おうとするが、リーザはその手を両手で包み込んで、また叫んだ——〝あの時〟の言葉の続きを。
「そうだったら、わたし——シムルグの、夏に成りたい!」
シムルグは、赤い蛇の眼を大きく見開く。
リーザは息を切らしながらも、シムルグの手を両手でぎゅっと強く握った。
「シムルグが、たったひとりで凍えて、震えて、寒さと寂しさに苦しみながら眠っちゃうのは、いやだ。どうしても、いやだと思ったんだ。シムルグには、ひとりで凍える思いも寂しい思いも、させたくない! 明日の朝ご飯はなんだろう、明日は晴れるかな、とか。そんな、ほっとする思いでいつも眠ってほしい! だからわたし、シムルグの夏に成りたいんだ」
しばらくシムルグは、蛇の眼を大きく見開いたまま固まっていた。しかし、どこか観念したような、力の抜けた様子で大きく息を吐くと、空いている手でリーザの肩を軽く叩く。
「あー……わかった。よくわかったから、落ち着け。一気に喋り過ぎだ、お前。ちゃんと息しろ」
「は、あ、うん、ごめ」
「ほら見ろ。深呼吸」
リーザはシムルグに背を擦ってもらいながら、何とか乱れて苦しかった息を整える。ようやく落ち着いたリーザの様子にシムルグは、ほっと鼻から息を漏らすと、腰に片手を当ててリーザを見下ろした。
「お前、本当に〝大馬鹿〟だな。俺にはお前の言っていることが、理解しがたい」
「え!?」
リーザにとっては一世一代の、大事な気持ちを伝えたつもりだったのだが。シムルグにはどうも伝わらなかったらしい。自分の拙すぎる北大陸語が原因かもしれない。
そんなことを省みながら、リーザはがっくりと肩を落とす。シムルグは落ち込むリーザを見て、どこか居心地悪そうに髪を掻き乱すと、またリーザの肩を軽く叩いた。
「……俺のことなんざ考えなくていいんだよ、お前は。自分のことだけ考えて、生きろ。それが人間ってもんだ」
「でも……わたしは、シムルグのお嫁さんだから。シムルグのこと考えるし、考えたいよ」
「……」
シムルグは薄く口を開いて何かを言いかけるが、すぐに噤んで鼻から長い息を漏らす。そして、蛇の眼を伏せてリーザからそっぽを向いてしまった。
「あー……もう、いい。お前の好きにしろ。気が済むまで、やりたいことをやればいい。……どうせ、短い生だからな。だが、俺の前でくだらねぇ死に方だけはするなよ? ただでさえ悪い寝覚めが、一層最悪になる。そうなった時、俺はお前を、一生許さない。一生、呪ってやる」
「! ……うん! ありがとう、シムルグ」
◇◇◇
リーザは、花のように顔を綻ばせて笑った。シムルグはリーザの思ってもみなかった反応に、思いがけず唇を噛む。
しかし、ふと、リーザは花のような笑い顔から打って変わって、どこか不安そうな顔でシムルグを下から覗き込んできた。
「わたし、すきに生きる。なので、その。これからも、シムルグのそばにいて……いいですか?」
大馬鹿か、それとも大物か。
やはり己の嫁となったこの娘は、どっちに転ぶかわからない。そんなことを思いながら、シムルグは小さく笑ってリーザに応えた。
「いいだろ、別に。それが、お前自身で決めた意思なんだったら」
リーザは、また弾けるような笑みを浮かべて頷く。
シムグルは思った。
この嫁は、まるで向日葵のような人だと。
そして、時に雷雨の如き烈しさを垣間見せ。勢い盛る草花の匂いを乗せて、自由に宙を駆け巡る風のようなこの人は。
常夏の魂を持つ、美しくも、恐ろしい人だと。
後の世では北大陸にて、とある歌が永く継承される。北大陸の誰もが知る、古の伝説の歌。
北大陸の〝不変の冬〟の呪いを、一人の娘と一人の異形の王子が溶かす御伽噺。その歌の名を——「常夏姫と冬蛇の王」と云った。