「常夏姫と冬蛇の王」第10話 駆蛇の試しの儀
駆蛇ノ原には、もう春先だというのに未だ霜蟲が数多く湧いていた。
リーザは木円盤を抱える手に微かに力を込めながら、緊張して速くなってゆく鼓動を落ち着かせようとする。すると不意に、前を歩いていたシムルグが素早くこちらを振り向き、分厚い革手袋で覆われた手でリーザの胸倉を掴んで引き寄せた。
リーザは驚いて声を上げる。
「んわ!」
「ボケッとすんな」
シムルグの低い声と共に、蟲の羽音が聞こえる。まさかと思い、シムルグの視線の方向を振り返ると、さっきまでリーザが居た場所のちょうど頭上付近に霜蟲がいた。それを、シムルグの革手袋の大きな手が掴んでおり、シムルグは捕らえた霜蟲を遠くへ投げるように放る。
リーザに霜蟲が近づかぬようにしてくれたのがすぐにわかって、リーザはシムルグへと慌てて礼を言った。
「ありがとう、シムルグ。わたし、ぼーっとしてた。もっとちゃんとする」
「無論ちゃんとしろ。それよりちょうどいい機会だ。見とけ」
シムルグは身に着けていた片手の革手袋を即座に外し、素肌のままとなった己の手をリーザに見せてやった。
シムルグの爪は刃の如く鋭く、手の甲から指まで美しい真白の鱗で覆われている。その上に、霜蟲の霜も微かに付着しており、シムルグの手をより一層白く、輝かせていた。
シムルグはその手で、おもむろに足元の草原へと触れる。そうすると、なんとまだ明るい新芽の色をたたえていた草原はみるみるうちに枯れ果て、腐って土となり、最後にはシムルグが触れた一帯が灰の如き砂と化した。
リーザは大きく目を見開いて、砂となった草原からシムルグへと視線を移す。シムルグは、あまりにも静かな横顔で、己の手が触れている砂を見つめていた。
「これが、冬蛇が持つ〝冷気の毒〟。生き物を殺し、腐らせ、挙句の果てには土に還すどころか砂にまでしちまう。バケモノの猛毒だ。……お前も、骨も残らない砂に成りたくなかったら、俺には決して触れるな。いいな?」
「……うーん」
リーザは唸るような声を漏らす。
シムルグは腰に提げた皮袋に入れていた湯で手を注ぎ、霜を溶かして再び革手袋を身に着けながら、何やら考え込んでいるリーザを怪訝そうな顔で見下ろした。
「返事は? なに唸ってる」
「うん……だって、わたしならその、〝冷気の毒〟。効かないんじゃないかな、と思って」
「ああ? 馬鹿かお前」
「ばかだけど。ばかじゃない」
リーザはそう真剣な声を零して、革手袋を纏ったシムルグの片手に己の右手で触れた。
「!」
「待って。ちょっと、おとなしくしてほしい」
反射的にリーザの手を強く振り払おうとしたシムルグであったが、リーザは手を放さない。リーザはシムルグを落ち着かせるように微笑みながら、シムルグを見上げた。
「わかる? こんなに分厚い手袋越しでも、わたしの手。熱い」
「……! なんだ、これ。いくら何でも熱すぎるだろ。お前の体温、どうなってる?」
シムルグは目を丸くしてリーザを見た。シムルグは分厚い革手袋をしているのにも関わらず、リーザの手の体温が、確かに伝わってくるのだ。しかもそれは、常人の体温にしてはいくら何でも熱すぎる。
「わたしの身体、〝春夏の女王〟の火種が宿ってる。だから、身体を熱くしたり、夏呼びもできるんだ」
「春夏の女王? 火種? なんだそれ」
「うん。えっと……つまりは、夏の火の精霊が生まれた時から身体の中にいるの。……それでわたしも、よくバケモノって言われてた。だから、シムルグの気持ち。ちょっとだけ、わかる」
「……」
シムルグは微かに息を止めて、口を噤んだ。リーザはその沈黙を破って、明るい声を出しながら、握っているシムルグの革手袋の手を軽く振った。
「ほら。こんなに熱かったら、冷気の毒もわたしには効かない! だからシムルグ、気にしないで!」
「……ばーか。いくら体温が高かろうが、触れた瞬間は毒で少しでも傷つくだろ。あと、大前提として。俺が誰にも触れられたくねぇんだよ」
シムルグはそう小さく息を吐いて、リーザの手を今度こそ振り払った。そのまま、足早に駆蛇ノ原を先へと進んでゆく。リーザは微かに眉を下げて「そっか」と呟くと、シムルグの後を追った。
◇◇◇
シムルグとリーザは、ようやくベルーガのもとへと追いつく。そこは、ちょうど駆蛇ノ原の中心部にあたるところであった。ベルーガは、己の背後に横たわって眠る巨大な生き物——駆蛇を親指で指し示して見せる。
「これが駆蛇だ。春も半ばになると冬眠から目覚め始めるけども、今は見ての通り。すっかり霜蟲たちに取り憑かれちまってる。シムルグ殿下や駆蛇みてぇな〝蛇〟には、霜蟲がなぜか特に好んで取り憑くからな。厄介なモンだが、これを現在では試しの儀として利用させてもらってる」
草原の中心には、寄り添うように何頭もの大蜥蜴〝駆蛇〟がいくつもの集団に分かれ、丸まって眠っていた。そこには、無数の霜蟲がやはり覆いつくすように群がっている。
ベルーガは段取りよく、試しの儀の説明を続けた。
「駆蛇に群がる霜蟲は、人に群がるヤツらよりも図太く、追い払うのも更に一苦労する。それらを手段を問わず、駆蛇一頭が目覚めるまで追い払うことができた霜祓いだけが〝宮廷霜祓い〟と、俺と殿下で認めるわけね。お分かりいただけた? リーザちゃん」
「はい! おおまか、には!」
「おう。いい返事だ」
次にベルーガは、腰に提げている剣を鞘から抜いて見せた。
その剣の刀身は、不思議な色をしていて。まるで何色もの暗い赤や茶色を混ぜ合わせたような、赤銅色に近い色をしていた。
「普通の霜祓いは〝血鉄〟っていう、スメイアの渓谷近辺の洞窟で採掘される特別な鉱石で鍛えた武器で霜蟲を祓うんだ。霜蟲は、この血鉄って鉱石が嫌いだからな」
リーザは初めて知る〝霜祓い〟の常識に、目を輝かせて何度も頷く。
「そうなんですか! はじめて知る、ました……!」
「ああ。リーザちゃんはそういう類の武器はなさそうだけど……大丈夫か?」
「はい! わたし、だいじょぶです。わたしには、夏呼びがあるので……!」
リーザは腕に抱える木円盤を掲げて見せる。ベルーガは興味深そうにリーザの木円盤をじっと観察した。
「はーん。それが、ラース坊からちょいと聞いた異大陸の奇術かい。いいねぇ、面白そうだ。色々期待してるぜ、リーザちゃん」
「はい! がんばる、ます!」
「じゃあ、始めるぞ」
シムルグは短くそう言うと両手の革手袋を外し、懐へと仕舞う。そうして、一頭の駆蛇の前で跪くと、素肌の手で微かに霜蟲たちの間から見える鈍色の鱗に触れた。
「友よ。新たなる蛇守りの誕生を試し。そなたらの目覚めを祝おう。我と共に、真を見通す蛇の眼を以て、見守りたまえ」
低い声でシムルグが呪いのようなものを唱える。小首を傾げるリーザに、ベルーガが小声で教えてくれた。
「あれが、試しの儀の始まりの合図。昔っから、冬蛇の第一王子がしなきゃならんらしい。ちなみに〝蛇守り〟ってのは、宮廷霜祓いの大昔の呼び名」
「なるほど……! 教えてくれて、ありがとうございます」
「ああ。それじゃ次は、リーザちゃんの番だ」
ベルーガに背中を押され、リーザは大きく息を吸って、吐き出しながら駆蛇のもとへと歩みを進める。逆にこちらへと戻ってくるシムルグとすれ違いざま、小さく耳打ちされた。
「そう固くなるな。お前が思うままに、やれ」
「! ……うん」
胸を逼迫していた緊張が、シムルグの声によってゆるりと解けていく。そして、新たに胸を満たした熱い勇気と共に。リーザは眠れる駆蛇の前で立ち止まって、木円盤をそっと柔らかい草の上へと置いた。