最末期の浮瀬
四天王寺にほど近い清水坂に、かつて『浮瀬』という酒楼が存在した。17世紀の末から19世紀末まで凡そ200年間の歴史を持っており、その間の栄枯については『浮瀬 奇杯物語』坂田昭二が決定版とも言える内容で網羅的に述べられている。
『浮瀬 奇杯物語』(以降、奇杯物語と略す)では大阪、京都、東京に出来た、それぞれ独立した経営者の浮瀬についてその歴史が文献情報を基に書かれている。ただ、その中でも最も有名でかつ長期間営業を続けていた大阪の浮瀬の、特に明治時代に入ってからの最末期に関して著者が当たっていない資料があることに気が付いた。
それは新聞である。
明治時代の文献として坂田昭二が参照したのは、明治10年(1877年)の『方今大阪繁盛記』、明治15年(1882年)の『大阪名所獨案内』上下と地図数点で大阪名所獨案内に茶店に業態を変えた浮瀬が紹介されていることと明治20年発行の『改正新版大阪明細図』掲載が最後で以降の地図・観光案内には見られないことを理由にこの前後の廃業と推測し、その後人手に渡ったとしている。
しかし、実は大阪朝日新聞 1879年9月11日 朝刊から14日の朝刊まで4日間の朝刊に売家広告が掲載されている。他に二階建の楼閣を取壊し、平屋を新築し庭の手入れも行い梃入れした事が別の記事になっている。
その後、予測よりも早い時期に所有者が変わった事も判明した。
大阪名所獨案内の時期までの記事は次の通り、全て朝日新聞
◇1879年2月1日
池を掃除し蓮根を掘り出した記事。
◇1879年5月25日
池に珍しい蓮を植えた記事。
◇1879年7月29日
その蓮が咲いた記事。それほど珍しい物でなかったとの記者のコメント。
◇1879年9月11日~14日朝日新聞
売家広告浮む勢 土地凡そ千百坪、家屋凡そ三百坪の売り記事。
◇1879年11月28日
旧建屋を取り払い云々の記事。この時点で2階建ての楼閣が無くなり、
新座敷が建てられた。
(上六辺りにあった)梅屋敷と同趣の体裁にしたとある。
◇1880年5月27日
新座敷の桐の欄間から新芽が出たという記事。
◇1880年12月24日
近所の福浦某が土地と建物を購入し、九谷焼模擬(まがい)の陶器
製造を始めるという記事。
※この福浦姓は織田作之助の異母兄の家系とみて間違いないだろう。
遅くともこの時期に経営が変わったことになる。これは奇杯物語での
想定よりも相当に早い。
⇒1882年3月 大阪名所獨案内発行
また、大阪獨案内発行よりも後にも若干の記事が存在する。
◇1883年5月25日
壷井新右衛門(何故かふり仮名は『しんざえもん』)が清水寺坂下の
空地 500坪を買い入れて、京都の清水焼に似た『浪速焼』と名付けた
陶器の製造販売を企画しているとの記事。
※浮瀬の跡地かどうかは明確でなく、裏付けは取れていない。
面積から見て4816-1-1番地(後ろの地図を参照)?
◇1883年10月2日
喜連の曹洞宗寺院妙法寺を浮瀬の跡地の土地を買い再興する記事。
住職は中村某。20円で典物になった貝觴の行方を捜している。
※寺の敷地には芭蕉の句碑(元々の位置から北西に10メートル移動
させられているが現存)が在ったとある為、ほぼ場所は確定できるも
裏付けが取れていない。
※移動の記録は浮瀬俳跡蕉蕪園 平松弘之/編著に拠る。
◇1884年2月8日
托鉢により資金が集まったので五百羅漢堂の建立着手が3月27日より、
という記事。
1880年の半ば辺りまでは料亭或いは座敷として営業されていた様であるが、以降は不明。大阪名所獨案内には方今茶店になったとあるが、いつ時点での情報を基にこの内容が書かれたのかが分からず。福浦家所有になってからも経営を続けていたのかも分からなかった。
奇杯物語では1880年12月24日の所有者変更、1883年時点では完全に廃業していた可能性が高いにもかかわらず1887年以降での福浦イシと鶴吉(織田作之助の父親)を潰れかけの料亭経営者の妹(1876年生まれ)と流れの板前との出会いにしている所などに再考の余地がある様に思う。
■大阪地籍地図:市街及接続郡部 吉江集画堂より、明治44年(1911年)時点での区画割りの中で浮瀬の在ったあたりを切り抜いたもの
漢数字は番地、その下の数字は面積坪(歩)表記。畑は作付け面積を反畝歩で記載するため、土地そのものの面積ではない。
少なくとも(伶人町)4817番地は浮瀬のかつての敷地と考えられる。ただ、これだけだと坪数が売家広告記事の数字に微妙に足りないので、4813と4814も且つては所有していたのではないか。※1892年よりも古い旧土地台帳が見付けられていないので単なる当て推量。
■今も探している
4817-2 辺りの芭蕉句碑を含む曹洞宗の妙法寺というのは現存せず。おそらく1892年までに消滅していると思われる。今の時点で新聞記事以外にこの寺院の存在を示す資料は見付けられていない。大阪府公文書館に寺院明細帳が残っているので、掲載されている可能性はあるも未見。
また、明治35年以前の旧土地台帳が存在しないかまだ見付けられていない為、正確な授受の時期や当時の所有者が不明。大阪法務局天王寺出張所が所轄であるが、職員の手を煩わすので捜索は中々難しい。
大阪市契約管財局管財部連絡調査課が古い建物台帳を保管しているらしいが、これも未見。
■蛇足
郷土研究70号の『八百松楼から浮瀬へ』という田中主水による記事中で浮瀬の跡地を買い取った西区薩摩堀の益田氏というのが、旧土地台帳から益田太三郎であることが判明した。ますだやとして醬油製造販売、小麦製粉業を営んでいた人物。購入した土地は(伶人町)4817と4817-2 のみ。4817には座敷があった。購入時期は不明、代々襲名しているため何代目の太三郎かが特定できなかった。
昭和7年に家督相続人が売却している。
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