循環を考える──海の思考、土の思考
山水郷チャンネルなどで地域活性化のキーパーソンたちのお話をうかがうと、ビジョンを描くことの大切さを身にしみて感じます。特にサーキュラーエコノミー(循環経済)のような仕組みをつくるには、ビジョンをわかりやすく絵に描いて、将来イメージをステークホルダー全員で共有するのが大切だと。
限定された範囲でのビジョンは絵に描きやすい。だから循環経済は小規模のほうが実現しやすく、その将来像を共有しやすい。それゆえ循環経済は都市より地方のほうが成立しやすい。
循環経済を有効に機能させていくためには、領域横断が不可欠である。縦割り行政の壁、業種の違いを乗り越えて、農業と飲食業を結びつけ、さらにエネルギーと林業、地場産業と観光をつなげて、金融や行政のサポートのもと、教育や医療介護とも関連させる……。
国家レベルとなると縦割り組織が強すぎて、それがなかなかできない。きっと殖産興業・高度成長には、専門化を進めてそれぞれが突っ走る、縦割り行政のほうがよかったのでしょう。
さまざまな領域が重なり合うようにつながりあう有機的な循環系は、小さな単位が主体となり、グラスルーツ(草の根)的に立ち上がっていったほうがよい。つまり「適度の規模感」で循環をつくることが大切──。
と、思っていたのですが、あるとき、ある人に会って、この「適度の規模感」だけでは大事な何かが失われかねないと気づきました。それは大局を眺める広い視野に立ちながらも、個の身体で流れを感知することです。大きすぎて、深すぎて、あるいは微妙すぎて、不可視の流れを感知する個の力。それがあるから、流れに身を委ねながらも、その流れを利用することができる。
リサイクルプロダクトを扱う岐阜県のとある会社の経営者が私の研究室を訪ねてきました。環境行政の動向をリサーチして順調にシェアを伸ばしており、新しい事業のために産学協同ができないかという話でした。
初老の彼は、どえらぁクセの強い方言で自分の事業についての話をまくし立てました。その強烈な個性に圧倒されっぱなしでしたが、それ以上に印象的だったのは「僕は海の男だから」という彼の言葉でした。
岐阜県って海ないじゃん。
と、思ったのですが、彼は前職は船舶の機関士だったそうです。
彼の思考は、良いモノをつくれば評価される、時代の先を行けば道は開ける、といったものとは全く違っていました。
入り口から考えるのでなく出口から考えるのです。出口を先に用意します。買ってくれる人、使ってくれる人、評価してくれる人、それらを準備しておいてからモノをつくる。心臓の入り口が大きくても、出口が狭ければ、血はうまく流れない。
3R(リデュース・リユース・リサイクル)が大事だからといって、生分解プラスチックを使ったお皿をつくっても、ペットボトルから服をつくっても、買ってもらえないと意味がない。
一方、彼は買い手を先に確保してから、モノを開発する。
出口が消費者のニーズとは限りません。行政や法律がつくりだす出口もあります。SDGsを達成するため、感染症拡大を防ぐため、公共福祉のため、国家や自治体が定めた指針がモノの出口を生み出します。
出口を用意するというのは、ゴールを設定するということではありません。ゴールをたどり着いた後のまだ先に続く道まで用意することです。
「僕は海の男だから」っていうのは、そういうことなんです。見えない流れを感知する能力があるから、これからどこに大きな流れが来るかを人より先に読みとって、出口をつくって自分のほうに流れを呼び寄せる。
鳥瞰という言葉もあります。大局的な視野という意味では同じですが、鳥瞰という表現は視覚に偏っています。また人間が空を飛び鳥のような視界を手に入れたのはまだここ170年のことです。一方、海は古来からその前から人に流れに身を委ねながらも大局的に流れを読みとる機会を提供してきました。海は生命の循環を生んだ場所であり、大小さまざまな無数の循環が包み込む場でもあります。
海の男と言うと、男だけなのかといったジェンダー的に問題を抱える表現になりますから、海の民ということにしましょう。日本は海に囲まれた細長い列島です。山岳地帯といっても大陸の真ん中のそれとは違います。
日本の中山間地域を流れる大きな河川は、かつては物流の要になっていました。山に囲まれた地域でも寿司は食べるし、昆布や鰹や煮干しで出汁をとる。そうした意味では、長野県人も埼玉県人も群馬県人も栃木県人も山梨県人も岐阜県人も、海の近くで暮らす民なのです。
循環を海から考える。それはどういうことなのか?
海は広いな大きいなですから、でっかく物を考えるということか思いがちですが、単純なでっかさ礼賛とは違います。
物事をスケールの大きな視座で捉えるということと同時に、慎重に流れを読むという側面があります。出口とさらにその先の道まで考えて、流れをつかむという思考が、小さな単位の循環自体を大きく循環させることができるのです。
循環の循環とは、SDGsで言えば、17の達成目標(ゴール)を有機的につなげる循環を生み出すことです。達成したからOKというのではなく、ゴールの先にあるものを見据えて、どことどこをつなぎあわせれば循環的な流れができるか、それをどう持続的成長に結びつけるか、といったことを考えることです。
日本各地で生まれつつある適度な規模感の循環をゴールとは考えず、どう他のそれら循環と接続させていくか、それら適度の規模の循環が自律分散協調しながら、より大きな流れにする。それには「海の思考」が必要だと思います。
地球全体だってバックミンスター・フラーが言うように「宇宙船地球号」なのですから、気候変動や貧困など喫緊の問題にはやはり海の思考が不可欠です。
土は陸の循環の要です。土は風化した岩石とか微生物から成り立っています。微生物がいなければ土とは呼びません。微生物は落ち葉や動物の死骸を分解して土に還します。
土の思考は、不可視な微細なものまでも共に生きるものとして考える極めて解像度の高い共生の思考だと考えます。適度な規模感の循環は、この土の思考から生まれます。
そこに海の思考が加えていくのです。「大きいことはいいことだ」(指揮者・山本直純が1960年代後半に出ていた「森永エールチョコレート」のTVCMのキャッチコピーです)とか、戦艦大和から宇宙戦艦ヤマトへとつづく大艦巨砲主義とか、物事を大きく捉える思考は、日本人には馴染みあるものですが、大東亜共栄圏と言ってみたり、ジャパン・アズ・ナンバーワンと調子こいて、つまずいて、でっかさ礼賛はすぐにしぼんでしまいます。
でも、海の思考の本質は、絶え間ない情報収集と研ぎ澄まされた身体感覚によって、ノイズとされるものからでさえ意味を読みとり、流れをつかみ、その先を読んで、大きな流れを手元に引き寄せることです。そうやって、つながらないと思われていたものをつなげてしまう。インターネット、グローバル規模のサプライチェーンなど、もはや海の思考を必要とする場は海だけありません。海の思考で循環の循環を生むこと──それが大事だなって思うわけです。