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近年のグッドデザイン大賞について考える

すっかり社会善大賞になってしまったグッドデザイン大賞。私は違和感を覚える。誰もがそれを良いことだと思うことを、「よくやり切りました」「うまいこと独創的な仕組みを作りあげました」と高く評価すること自体は否定しない。

しかし、デザイン史の文脈に照らし合わすと、世の中のメインストリームに一定の距離を置きながら、まだ見えていない・まだ良い事と思われていない、もうひとつの望ましい未来のあり方を、モノづくりやコトづくりを通して示してきたのが、モリスやバウハウスやイタリアのマエストロたちに連なる近現代のデザイン文脈だと考えるので、わかりやすい誰もが良い事と認める社会善(ソーシャル・グッド)に大賞を授与しつづけるグッドデザイン賞のあり方には違和感を覚える。デザインの王道には、周縁性やオルタナティブ性が必要ではないのか。

「良い答え」ばかりが評価がされ、「良い問い」「革新的な問い」への関心が薄い。あらかじめ用意されてい善の規準に沿った「問い」に、良く答えることが良いデザインとされている。良い答えのデザインは、倫理のデザインでない。道徳のデザインである。

倫理的であるということは、善悪の境目に立ってそこから社会や人間の行動を展望すること。道徳的であることは、すでに決められた善の規準の上に立ってその規準を遵守すること。そう考えると、社会課題解決だけでは倫理的とはいえないわけで、問いを立てるということが主眼になって、はじめて倫理的といえるものとなる。答えだけが評価され、問いを立てることへの評価が薄れている。そのあたりが違和感の所在かと考える。

大賞選考の投票の対象となった金賞は、審査員たちが選んだみなグッドデザイン大賞に相応するもの──グッドデザイン賞の幅は広いので、比べようがなく、最後は、多くの人の意見も採り入れて総意として大賞を決めるというやり方は考え方として正しいとは思う。

しかし大賞はやはりその年の顔である。日本のデザインの歴史をかたちづくるものである。

2018年のおてらおやつクラブ、そして3年後からのOriHime(2021)、チロル堂(2022)、52間の縁側(2023)、RESILIENCE PLAYGROUNDプロジェクト(2024)と4年連続、社会善追求型の社会問題解決デザインが大賞を受賞している現状に、そもそもデザインってそんな問題解決ばかり指向していたものだろうか、という思いがひしひしと募ってくるわけである。大賞受賞のプロジェクトはそれぞれは至極素晴らしく、ケチをつけるつもりは全くない。ただ、こうしてデザインの顔に流れができてしまうと、こうしたプロジェクトに大賞を授与する仕組みと背景になんらかの偏った原因があるのではないと考えてしまう。

自分なりにその原因を考えてみると──

・応募者側の傾向と対策がしっかりできていること。
・大賞決定が候補者のプレゼンをみて投票するというやり方だから、大賞選定が感動ベースになって、プレゼンで感動演出に成功しやすい社会善訴求型ソリューションに票が流れてしまうこと。
・広い意味でのデザインを実践しているけど、デザイン史に対して関心も知識もなく、デザイン文脈を構築する意識のない審査員が増えすぎていること。

とか、あるが、一番は、コンプライアンスやポリティカル・コレクトネスといった「正しいこと・善いことをすること」に縛られている社会の閉塞感の顕れだと思っている。多様性を尊重し、LGBTQや社会的弱者に寄り添うことはものすごく大切なことだが、その「正しいこと・善いこと」に思考も実践も縛られ、多様性尊重や弱者救済が教条主義的になってしまい、むしろ多様性が失われている。

だから正しい答え・良い答えばかりを並び立ち、閉塞感から抜け出す手がかりになる問いを発する力が、この国の(いや、もしかして世界の)人たちから失われつつある。

わからないこと・不可知なことに向き合って、問いを絞りだすような、そんなデザインを評価するプラットフォームが必要。しかし、それを批評性よりも経済活動の振興を是とするグッドデザイン表彰制度に求めるのは難しいのはわかっている。しかし、それでもその必要性を訴えていかないと、デザインがデザインである意味が消滅してしまう。

デザインは姿勢であり、「現状をより好ましいものに変えるための⾏動を⽴案する⼈は、誰でもデザインをしているのだ」(H.サイモン)というのは真実で、デザインは誰もが日常的に行っている行為なのだが、それを字義通りに受けとめて歴史を書こうとすると、草野球の組み合わせをする人も、アップルパイをつくるお母さんまで歴史書に載せなくてはならず、デザインを歴史として抽出することができず、デザイン史やデザインの文脈というものが成り立たなくなる。

そこ、つまり、デザインには歴史も文脈もあり、それを構築する責務があるということを審査する人間がしっかりわきまえて、グッドデザインの最高賞を決めないといかん。そう思うわけです。


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