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Distributive Justice と主体の独立性について
今日からノートを始めてみます。昨日、大学院生の友人から教えてもらい、面白そうだなと思いこうなった訳です。かと言って、何も分からず書いている訳ですから、このブログ?がどのように展開していくのか、私自身にも全くわかりません。
で、1回目の今日はDistributive Justiceについて書いてみようと思います。というのも、昨日の大学院の講義でDistrbutive Justiceという概念のディスカッションをやりまして、まぁあれやこれやと話した訳です。そのクラスではKimberly Hutchingsの Global Ethics (Plolity, 2018)を使っておりまして、その中で自分で得た収入のどれぐらいの割合が本当に自分自身が生み出した価値に基づいてるのか、という議論になりました。
この問題はこのところ僕自身ずっと引っかかっている問題でしたので、議論は白熱しました。例えば、僕は今中堅どころの大学で働いていて、それなりの立ち位置をいただいているのですが、この大学で働けるようになったのも、たまたま面接していただいた皆さんに気に入ってもらえたというだけであって、もし面接官が違っていれば当然結果も異なったと思うんです。大学院生の皆さんからは、僕が「そこまで頑張ってきたから面接官に良い印象を与えられたのではないのか?」という疑問も出ましたが、それまで頑張っても全然結果が出なかったという過去の事例を引き合いに出しながら、全ての面接で僕の業績が認められたわけではない、という説明をしました。院生さんはうーん、っていう感じでしたが。
おそらくこの問題は主体がどの程度独立して存在しているのか、という問いと密接に関係しているものなんでしょうね。このノートでもこれから頻繁に言及することになると思うんですが、このところこの問いが頭から離れない状態です。(終)
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