座禅を体験してきた話
先日、友人を誘ってとあるお寺で座戦を体験してきた。
きっかけは単純な話で、失恋してつらくて仕方ないから、座禅してみたら何か変わるかなと思ったのだ。単純な女である。
申し込んだコースは、法話が15分、座禅15分を休憩を挟んで2回のコース。15分も果たして私は無言で座り続けられるのか…と正直自信はなかった。
その日はあいにく朝から雨だった。
お寺について座禅についての軽い説明を受け、姿勢をつくる。
「結跏趺坐」(けっかふざ)と呼ばれる、両腿の上に足の甲を置く組み方をするのだが、これがまた難しい。いや、単に私の柔軟性が足りないのだろうけど。
結局、両足ではなく片足だけを腿にのせる「半跏趺坐」(はんかふざ)で落ち着いた。
「結跏趺坐」についてはどんな組み方か知らない人はぜひ調べて、ついでに試してみてほしい。
(ちなみに私はこの記事を書きながら再チャレンジしてみたところ、組むことができたが、とてもじゃないけれど瞑想なんてできやしないほどにきつかった)
「ゆっくりと鼻から息を吸って吐くまでを一つとして、十(とお)数えたらまた一つ…これを繰り返してください。呼吸に集中することで、思考が一か所にとどまらないようにします。どんどん浮かんでくる思考を、車窓から流れる景色のように、川の流れのように眺めます。集中できなくなってきたり、気分を変えたいとき、思考の渦にとらわれてしまったときには、合掌してくだされば、警策(けいさく)で肩を打ちます」
ご住職の説明をうけ、早速座禅タイムがはじまる。
ひとーつ、ふたーつ、ゆっくりと心の中で数えながら鼻で呼吸を繰り返す。説明の時は、数数えてるくらいじゃ余計な事考えるでしょ…と思っていたのだが、これがまた、とてもよかった。
心を「無」にはできない。けれど、ぐるぐると同じことを考えることができないのだ。そりゃそうだ。一つのことを集中して考えようにも、ひとつふたつと呼吸を数えながらほかのことに集中などできなかった。
数を数えることに集中していると、途中からぼんやりしてきて、いくつまで数えたんだったかわからなくなったり、時に失恋のことを考えて苦しくなりかけたり…
余計なことを考えていると気づくたびにまたひとーつ、と意識して数え始めると、思考もまたとどまることをやめてとめどなく流れていく。
車窓から景色を眺めるように、とはうまくいったもので、ひとところにとどまらずにたくさんのことが心をよぎっていく。
「今夜何食べよう」「より戻したい」「あいたい」「明日は何しよう」「仕事めんどくさい」多分こんなことが流れていた、はずだ。
けれどもそのすべてが明確に思い浮かぶ前につぎの数字を数えていて、まさに思考が「流れて」いく。
せっかく座禅体験なのだから警策で打たれるのも試したい。
合掌して、肩を差し出す。両肩を二度ずつ打ってもらうと、結構な衝撃が襲う。おかげでまたいちから数を数えて呼吸に集中。
15分×2回、計30分は、思ったよりあっという間に終わった。
当日はあいにくの雨だったのだけれど、これがまた座禅中にうっすらと耳に雨音が届いて心地よかった。
始める前は正直、心を無にできるものだと思っていたけれど、そんなことはなかったし、実際ご住職も「我々本職ですら、心を無にすることは難しいです。ですが、大切なのは、思考を一か所にとどめることなく、流していくこと」とおっしゃっていた。
本職の方が難しいなら私が無にならないのも仕方ない。
終わってみても、べつに私は何にも変わらなかった。
失恋の傷は相変わらずずきずきと痛むし、いますぐ会いたいし、よりを戻したいし、仕事はめんどくさい。
けれど「心地よい時間を過ごした」という充足感は間違いなくあった。
私たちは、日ごろからたくさんのことを考えている。
うそかまことかはわからないが、人は一日に6万回も思考するという記事をみた。
6万回。思考って、どこからどこまでが1回なんだ、というのはおいておいて、かなりの数ではないか。
6万回も毎日考えてれば、そりゃ疲れるはずだ。思考の休憩が必要だろう。
座禅で呼吸を数えている間ももちろん思考は流れていたけれど、ただ、深く考えることができない。だって呼吸を数えているもの。
深く考えることを休憩させてくれたのか、となんとなく思った。
ただのおもいつきだったけれど、座禅、めちゃくちゃよかったな。
家でもたまに、やってみるか。
そんな感じ。
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