歳を取って楽になったこと
はじめに
私がここで述べるのは、
年齢を重ねることに伴い、
反感しか持てなかったものを、
違和感を伴いながらも
理解できるようになった
(視野が広がった)
とか、
言語化できなかったものの正体に、
名前を(見)付けて
何とか手名付けることに成功した
(思慮深くなった)
というような建設的なことではない。
端的に言えば、
世間に「完全なる諦念」を求め、
己に降りかかる失望や軽蔑をスルーする。
という類いのもので、
例えるのであれば、
「時効が成立した犯罪者」の境地だ。
だから、
年齢を重ねることに
肯定的で有用な価値を求める方が、
この記事を読んで得られるものは
何一つない。
デキる方から見れば、
「クソ(以下)」な思想だ。
貴重な時間を無駄にしないよう、
冒頭でその旨お断りしておく。
◼️歳を取って楽になったこと①
子供を作れと言われない
ここ日本では、
婚外子は決して求められないため、
子供を作る必須条件である
「結婚」にも言及されなくなる。
「結婚しないの?」
「子供欲しくないの?」
という質問に答えなくとも、
(疑問を持たれようとも)
ある一定の年齢を過ぎれば、
「結婚ができなかった」
↓
「子供は作れなかった」
という暗黙の認識を
相手が自動的(勝手)にしてくれるのだ。
「結婚したい」「子供が欲しい」
と思っていた方にとっては、
この上なく屈辱的な認識
なのかもしれないが、
結婚も子供も求めたことのない
私にとっては、
結果オーライな配慮なのである。
◼️歳を取って楽になったこと②
「老化」というカードが使用可
私は現在、生産年齢人口
(15歳以上65歳未満)に収まるものの、
決して生産性の高い人間ではない。
その要因である
「やる気の無さ」や「能力の低さ」に、
新たに「加齢による影響」が加わった。
その結果、
私個人の生産性の低さは、
「やる気」や「能力」のせいもあるけど、
「歳」のせいでもあるよね~、
という言い訳が可能になったのだ。
私のこの「言い訳」は、
意識高い系の方々からは軽蔑され、
決して認められることのない思考だが、
私個人の精神衛生上、大変有用だった。
◼️害も価値もない人間
「いないよりは、いた方がマシ」程度で、
「生産性は期待できない」と
社会から思われても全く違和感はなく、
「犯罪さえ犯さなければ👍️」
的なポジションに私はいる。
「私は無価値だ…」
とヘコむことがないことはないが、
そもそも私は昔から、
夢(やりたいこと)もなければ、
向上心もなく、
自分に「価値」など求めていない。
◼️可能性の収縮に伴う安堵
若さに無条件で付随する
「可能性」という余白が
加齢と共に消失することで、
本来の私のポテンシャルが正しく認知され、
期待と一方的な失望から解放されたことに
私は確かな喜びを感じるのだ。
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最後まで読んでいただいたにも関わらず、
微妙な読後感(😰😒😡)を残してしまった
としたら、大変申し訳ない。
(だから冒頭で断りを入れた…)
だが、
その感覚こそが、
間違いなくまともで建設的な認識である。
私のクソ思考を肥やしとし、
素晴らしく有益に
年齢を重ねていただければ幸いだ。