我は反出生主義者なり
何か生きづらい…。
生まれた時点では、そうは思わず、すくすく元気に育ち、それなりに生きてきた。
が、中学の頃を境に、周囲との感性の違いを認識し、世の中に対する違和感と共に生きている。
もしや、今でも中二病?
もしくは、(一生続く)中二病の後遺症?
これが、俗に言う「少年の心を忘れずに生きる」ことだとしたら、かなりしんどい。
居心地が微妙…。
私にとって、人生とは、出生主義者が主催するイベント(強制参加)だ。
そのイベントでは、大人気の曲が流れ、屋台が並び、皆が盛り上がっている。だが、私だけがそのノリに付いていけてない。
私には、その曲が「不協和音」にしか聞こえないし、皆が美味しいと感動している食べ物を口にしても、「普通の味」としか感じられない。
そんな類いの居心地の悪さを、反出生主義者である私は、事あるごとに感じるのだ。
お先に失礼したい
私が居心地の悪さを感じるからといって、誰か(何か)が悪いわけではない。ただ、人生(出生主義者が主催する強制参加イベント)に対してどう思うか、という感性の違いがあるだけである。
一番の問題は、そのイベントから退出させてもらえないことだ。
「あ、私、実は反出生主義者なので、
(人生)お先に失礼します。」
と言うことさえ憚られているのが本当につらい。大変苦しい。マジきつい。
出生主義統一教かい?
人生は素晴らしい。
そう思えるのは、何より素晴らしい。
だが、私個人はそうは思わないのだ。
ただ、それだけだ。
なのに、
出生主義者が反出生主義を意地でも認めない(鬱病を疑う)、もしくは、出生主義という感性に統一しようとする(出生主義教の勧誘??)のは何故なのか。
「共に生きることはできる」
反出生主義だからといって、出生主義を否定しているわけでもなく、反出生主義者が出生主義者を脅かすわけでもない。
反出生主義者の主張は、
「生きろ……(出生主義者である)そなた(の人生)は美しい」
であり、出生主義者との対立を、微塵も願ってはいない。
反出生主義者の願いは、
「反出生主義(者)を認めていただきたい」ただそれだけなのだ。