私が「子供を産まない」のに理由などない。
◼️「子供を産まない」
そう決断をする(した)女性が
認知されるようになってきた。
「子供を産まない」意思を持つ女性は、
どんなに少数であろうとも
いつの時代にも存在しただろうから、
全ての人に好かれる人が存在しないように、
全ての人から共感・支持される
制度や思考(嗜好)などは
決して存在しない。
「子供を産まない」
という意思を表明する女性
その存在自体が、
社会には目新しく映るのだろう。
◼️「子供を産みたい」?
物心ついた時から
「子供を産まない」意思を持つ以前に、
「子供を産みたい」という嗜好を
持ち合わせていなかった私は、
「子供を産まない」という
意思(嗜好)を持つ女性もいると、
やっと社会が公認し始めた…
と心から嬉しく思った。
だが、
それ関連の記事や
そのコメントを読むと
どうもしっくり来ない。
「子供を産まない」という決断には、
「キャリアを優先したい」
「経済的余裕がない」
という明確な理由が必ずあるからだ。
裏を返せば、
それら(懸念)が解消されれば
「子供を産みたい」
ということであり、
それは、
全ての女性(のデフォルト)は、
子供を産むことを望む
ということになる。
仕事の存在や経済状況に関わらず、
「子供を産まない」という選択をする
私のような意思(嗜好)は
やはり社会的に認知されてはいないのだ。
このように感じる時
私は決まって、
性的魅力を感じる対象は異性のみ。
恋愛感情や性的欲求はあるのが普通。
という社会的圧力に喉を潰される
性的少数派と同じ視座で、
社会を見上げたような気持ちになる。
◼️「子供を産まない」理由
結婚は「したい」し、
子供は「欲しい」もの、
と世間は何の疑いもなく考えている。
まるで、理性を知的に無効化する
「信仰」のように…。
そして、
結婚は「したい」し、
子供は「欲しい」と
思わない人にだけ
「え、マジ? 何で????!!」
とその理由と説明を求める。
私が「子供を産まない」ことに
理由などない。
私が「妊娠出産できる性」であっても、だ。それは「子供を産む」理由になどならない。
実現可能なことと、
やりたいこと(やらねばならぬこと)
とは別次元の問題だ。
その気になれば、
誰でも実現可能な「自己犠牲」を、
実行に移す者など(ほとんど)いない。
そして、その現実に疑問を持ち、
理由を求める者など(全く)いない。
だから、
「子供を産まない」女性が感じる罪悪感は、
正当ぶった社会的圧力に他ならない。
仕事を優先することで
育児を社会的に免除され、
養育費は努力義務に留まる国(※)日本で、
※
離婚などで支払われない養育費は
他のどんな税金よりも優先して
強制徴収されるべきお金であろう。
税金を滞納されても日本国は十分もつが、
養育費を支払われない母子世帯の子供は
不当で理不尽で継続的な貧困状態に陥る。
私が男性(妊娠出産はできない性)
であったとしても、
「自分の子供は持たない」
という選択をすると確信している。
自分の遺伝子に拘りはないので、
何が何でも「自分の遺伝子を残したい!」
とは微塵も思わないし、
自分の遺伝子以上に優れた遺伝子、
育児養育環境を自分以上に整えられる者、
自分以上に子供を欲しがっている者。
それらの存在を知っているので、
自分の遺伝子に固執する意味と感情が
私にはどうしても理解できないのだ。
私が「子供を産まない」理由、
それは、
ただの私の個人的な意思であり、
私の超個人的な嗜好に根差している。
私が「子供を産まない」ことに
理由らしき理由など、どこにもないのだ。