【極夜行】夜行性の嗜好
★昼よりも、夜が好き
大半の人間が
寝静まった世界で背を伸ばす。
他者はその存在感を残しつつも
エネルギー充填のため、
すべての活動を一時的に停止した。
ほぼ完璧に
安全性が確保された空間で
私は心から安堵する。
好意も向けられないが、
悪意も向けられない。
そのメリットは、
いとも簡単に孤独を懐柔する。
★夏よりも、冬が好き
もこもこする生地を
心地よく纏うことで精神が落ち着く。
寒ければ着込めば良いし、
暑ければ脱げば良い。
どんな服を着ていても、
コートと帽子とブーツで即外出可能だ。
世間との摩擦を生み出さず、
ファッション性よりも
機能性と着心地を優先する感性を、
堂々と発揮できる素晴らしい季節だ。
★極夜に生きてみたい
太陽が沈んでも暗くならない
白夜(びゃくや)の逆の現象で、
一日中太陽が出てこない
極夜(きょくや)がある。
冬が長く、
日照時間が短い地域では、
うつ病の罹患者や自殺者が
多い傾向にあるらしいので、
極夜となれば、
更なる深刻な影響が出そうである。
だが、
昼よりも夜に精神が安定し、
夏よりも冬を好む、
私の身心は一体どうなるのだろう。
国を跨げば、
生活環境すべてが変化するため、
気候と日照時間に限定した影響のみを
単純に比較することは不可能だが。
★空に太陽がある限り
落ち着いて物事を考えられるのも、
食欲が出るのも、日没後だ。
太陽光があると、何故か落ち着かない。
何なら、私は朝日を浴びると絶望する。
起床後の約30分間、
私は毎回、緩い地獄を見ている。
結果的に太陽光は、
私の精神に結構な類いの弊害をもたらす。
セロトニン獲得(メリット)以前の問題だ。
太陽光の反射により視覚情報が増え、
その処理に主要なエネルギーを
奪われているのかもれない。
だとしたら、
私に不足しているのは、
セロトニン以上に、
情報処理機能なのだろうか。
★世間という名の太陽
おそらく、
私が昼よりも夜を、夏よりも冬を好む
最大の要因は太陽に関係している。
太陽とは、
まるでの世間ようだ。
強力な力をもって
光(善、常識)を作ると同時に、
容赦なく陰(悪、例外)をもたらす。
その境界は明確で、
曖昧さを許さない。
嫌悪する程ではないものの
何故か相性の悪い人
と対峙したときのように、
太陽の下で、
私はどうしても緊張してしまう。
★私は、例外の中の一人
他人との距離を保ち、
必要最低限以外の接触は、可能な限り断つ。
「ソーシャルディスタンス」
という免罪符を、
生まれて初めて手にした感覚は
今でも忘れられない。
夜型の生活をするのも、
「他人との行動時差を設けるため」という
超合理的な説明が可能となり、
それまで感じていた
何とも言えない後ろめたさが霧散し、
身も心も軽くなった。
夜型の生活リズムは、
何かとネガティブな言説にまみれている。
だが、朝型の生活を辞め、
「普通」から距離を取った結果、
私の精神は落ち着き、
人生は大分マシになった(ように感じる)。
「いい人だよね」「あれ、マジ最高!」
と世間一般が高評価する対象から、
「いや、私は苦手だわ…」
と意識的に距離を取る決断には
例外なく疎外感が伴う。
だが、時差を経て、
絶対的な平穏も、もたらされる。
自分の感覚を
ダイレクトに受容することは、
おそらく何よりも健康的だ。
★「明けない夜はない」
だが、
夜はまた必ず、
定期的にやってくる。
目を閉じても
光を忘れさせてくれない太陽より、
目を閉じれば
何もかも一時的に溶かしてくれる闇に、
私は優しさを感じる。
太陽光は嫌いではないが、
日差しが少々暴力的過ぎる。
私には、
月に反射してから届くくらいの
間接光で十分だ。
横断歩道の
白い部分のみを選んで歩くように、
光の中を生きられる人には
分かるまい。
私は、
身を潜めることが可能な
闇を求める。
私は、夜が好きなのだ。