社会に求められることを諦める

どこででも
生きていける力が
欲しかった。



働く場所が変わったとしても
十分に通用する能力を持ち、
どこででも求められる人間。

私はかつて、
そんな超人的な人間に
なろうとしていた。

それが人間の在るべき姿だと
思い込んでいたからだ。



過去の私は
身の程知らずな理想を掲げていた。

今の私なら間違いなく、
そう思う。



どこへいっても
求められる社会人になる。

そんなパーフェクトな能力への志向とは、
全ての人から好かれようと努力することと
ほぼ同義である。

「理想は高ければ高いほどいい」
などと本気で考えているのは、
経営者だけだ。


新しいことを要領よく身に付け、
臨機応変に対応する。

そんな難易度が高いことを、
全ての人間に求められても困る。
というか、無理だ。

ハイレベルな人間は
局所的にしか存在しない。

レアなものを
至極当然のように求めるのは、
迷惑ですらある。


何事にも全力で取り組む。

人は特定の何かに集中すれば、
それ以外のことに全力は注げない。

恋愛、結婚、出産、育児、家事、仕事、
プライベートの充実(趣味や美貌の維持)、
それらのコンプ。

という人生ゲーム(無理ゲーver)
の前に立ち尽くす女性なら
理解していただけるだろう。


では、

できることを精一杯やればいい」のか、
というと実はそうでもない。

「可能な限り努力する」とは、
可能ではない(=自分ができない)ことを
放棄(放置)する側面も併せ持つ。

「精一杯やったが、できなかった」とは、
現実社会において(無価値ではないが)、
決して評価には値しないのだ。




1言われただけで
10理解し、

必要な時に
求められた以上の労働を
主体的に行った上で結果を残す、
流動的な人間。

社会が真に求める理想的な人間とは
そのような存在なのだと理解した今、

私は社会に求められることを
きっぱり諦め(られ)た。


この諦念を
ネガティブなものとしてしか
受け取れない方は(おそらく)、

どこででも
生きていける力

をお持ちではない。


全ての人から好かれようとする者を、
基本的には暖かい目で眺めつつも
どこか憐れんでしまうように、

社会に求められようと努力する者には、
特定の環境でしか生きる選択肢がない
絶滅危惧種のような「危うさ」を感じる。


私たち個人は、
社会のために存在している
のではない。

社会とは(せいぜい)、
「私たち個人と共に」存在するもの、
に過ぎないからだ。


社会との共存を図るために
自己犠牲を容易に正当化できる精神とは、
実は、かなり、不健全極まりない



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